einsamkeit

2012.03.30 Friday
プラトンのアカデメイア
 古代から九百年存続し、西洋の学校、大学の始まりといわれるアテネ郊外にある
プラトンのアカデメイアの跡地を訪れました。
一般のガイドブックには地図はおろか名称すら掲載されておらず、案内慣れした
ホテルのフロントマンにも知らないと言われ、やむなく以前見た廣川洋一著
『プラトンの学園 アカデメイア』の地図のおよその記憶とバス路線図を頼りに
オモニア広場から迷いつつ歩き出しました。途中街のおじさんやおばさん十数
人に道順を尋ねましたが、わからないと言われたり、ここがプラトンだと通り
を指して言ったり、誰も明確な答えをくれず、表示がないので周囲を徘徊し、
たどりつくまでおよそ二時間強かかりました。
 そもそも観光スポットを少し逸れるだけで英語が通じない。しかしなぜかイタ
リア語は通じる場合がある。現代ギリシャ人は西欧文明の起源とされるギリシャ
古代哲学よりもキリスト教のドグマのほうが身近なんでしょうか。ピタゴラスや
パルメニデスが南イタリアを拠点としていたこと、後のマグナ・グラエキアなどを
思うと地政学的にもギリシャとイタリア間の往来は現代非西欧人が想像するほど
遠くはなく、古代期は溶け合っていたのかもしれません。
 肝心の史跡ですが、ただ石が散らばっているだけ。観光客は一人もおらず、犬の
散歩をする近所の老人のみ。事前情報がないとここが何の跡なのか不明な地味な
遺跡です。アリストテレスが学び、プラトンが思索し亡くなった哲学の聖地である
にもかかわらず、常時観光客が押し寄せるパルテノンやアゴラに比べその整備の
乱雑さ、荒廃ぶりに驚かされます。
 しかし繰り返し修復され続け人工的に保たれている豪華な建造物よりも、歴史の
古層とその近辺に住まう現在の人々の共存の姿を見るのが一つの喜びで、今回も
史跡そのものより、そこへ辿り着くまでに目にした情報化できない生きた風景や
人々の表情こそ貴重な体験と記憶を与えてくれました。

                                    
                                 つづく

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2012.03.07 Wednesday
東方正教会のサウンドスケープ 
 長時間散策し感じたのは教会(ギリシャ正教会 Ορθόδοξη Εκκλησία)の多さ。
国教なので当然かもしれませんが、イタリアやフランス、スペインにおけるカソ
リック教会やドイツのエヴァンゲーリッシュ教会、あるいはイギリスの国教会
の街を占める割合より遥かに高密度で、一つ一つの建造物は小規模ですがその
分、地域生活に溶け込んでいる印象を受けます。
 複数の教会から時報として一斉に鳴る鐘の音、互いに申し合わせているのか、
それぞれ独立して音を発し、結果混ざるのか不明ですが、異なる音高と周期で
立ち現れる音像は合奏状態を招き、ミニマル・ミュージックさながらにオスティナート
が空間性を伴って絡み、奏でられるポリリズムから小宇宙が生成されま す。ちょうど寺の密集した京都で除夜の鐘が盆地という地形から立体的で音響彫 刻のように時を刻むのと同様、音色の密度や倍音成分、多極性に聴き入れば、目 を瞑っていても反響音から今街のどの辺りに居るか把握できるはずで、音体験 であると共に自覚(Selbstbewusstsein)の契機にもなります。  テリー・ライリーやフィリップ・グラスが東洋の音楽構造に触発され自らのス タイルを確立したことはよく知られていますが、外地に対象を求めなくとも、 ヨーロッパ内にそのようなヒントは在ったのです。スティーヴ・ライヒさんは中 世の教会音楽の影響と重要性を過去語っておられますが、これら音楽構造と残 された当時の社会構造、政体と文化背景、相互関連はもっと現代人に意識されて よい事柄だと思います。  音楽は科学的、物理観測によるただの空気振動にあらず、音楽を成立させるの は人々の心であり、そうである限り聴衆も作曲者もその時代潮流から逃れるこ とはできず、何がしかの形で社会なり政治に巻き込まれているのです。  フィリオクエ問題(Φιλιόκβε)で分岐した東方正教会はしばしば仏教との親 和性が指摘され、その教会建築やイコンは独特で信仰外の者をも惹きつける不思 議な魅力を放っています。
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2012.03.06 Tuesday
ギリシャより
プライベートでギリシャに来ています。
アテネ中央はローマに似て、いたるところに遺跡と教会がひしめき、ピレアスは
ナポリの印象と重なる。
アルカイック期、古典期、ヘレニズム、ローマ時代、ビザンティン時代......さ
まざまな時代の古層を直に見ることができるとともに、
神話と歴史の裂け目を繋ごうとする祭儀、時間を越え甦る文化と政治の関係に想
いをはせることができます。






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2012.03.01 Thursday
Geist ohne Wurzel


分野が広すぎ俯瞰することが困難な文化の変遷を自分なりに整理し、
古代から現代までの流れを簡略図として描いてみました。
スペース上最小限のものに絞り、時間軸でやや前後している部分もあり、
乱雑さを避けるため、通常の年表で最重視される歴史事件、革命や紛争はあえて省き、
少々悲観的な描写になりますが美術や音楽など文化成立にフォーカスしています。
(はじめ日本語で書いていましたが、色付けやデザイン配置しているうちに
日本語入り図面は生々しくどこか広告風になって美しくないので、
あえてドイツ語にしました。) 語彙は英語に類似しているので説明不要と思いますが、
日本で馴染み薄そうなもののみ記しておきますとMittelalterは中世、Gegenwartは現代、
örtlichは場所的、geistigは精神的な、Seeleは心、Kunstは芸術、Kircheは教会、
Unterhaltungsindustrieは娯楽産業、Weltlichkeitは世俗化、Werbungは宣伝、
Wissenschaftは科学、Gegensatzは対立、Verkehrsnetzは交通網、
Gemeinschaftは共同体、Gesellschaftは社会(利益で繋がる)、
notigは必要な、National bewusstseinは国民意識。
Wozu braucht man Religion?人はなぜ宗教を必要とするか?
Man hat Angst vor dem Tod.人は死への不安、恐れを持っているからである。
Geist ohne Wurzelは僕の造語で、情報化、価値流動する時代、ステロタイプで
操縦され、刹那的娯楽や消費へ向かわされる現代人の心の在り方「根のない精神」です。
                                つづく
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2012.02.28 Tuesday
母語決定論と生活圏
 また時間が空いてしまいました。先月駅で購入したミュンヘンのズードドィッチュ新聞にGeorges Arthur Goldschmidtのインタビューが載っていました。(紙面のみでオンライン版には掲載がありません。)フッサールとも親戚関係にあるこの人の名はずいぶん前から気になっていて、独文芸誌テクストプルスクリティックの特集号は持っていましたが、あくまで二次文献、批評であり、邦訳された書物もなく、原書を読むのは相当骨の折れる作業だろうと長期留保していましたので偶然買った新聞で氏の思想の一端に触れることができ幸運でした。見開き2ページを占める氏の応答は、僕がこの5年ほど考えていたことと見事に合致していて、普遍テーマではあるものの、その視点の行方に共感させられました。
 大きくわけて二つの事柄が語られてしました。一つは思考における母語決定論というべきもので、言語学者が研究対象とする調査統計やコーパス、科学的な視座、机上のそれよりももっと個の実体験や幼少時の記憶から鮮やかに言語を捉えていました。もう一つは宗教と恥について、ユダヤ人である氏からみたエロスを隠蔽しようとするプロテスタント習慣への批判。カソリック側からのプロテスタンティズムの美徳批判は芸術観からルイス・ブニュエルなど古くから存在しますが、ゴルドシュミット氏はハンブルグ在住時異教徒としての実体験を赤裸々に語っておられ、宗教の担う善における公私の境界崩壊を察知し、腐敗する
カソリックよりもプロテスタントをさらに危険視したイタリアの政治学者マキャヴェリの言説を想いだしました。
 とりわけ僕が共鳴したのは前半、言語の決定論的な考えです。ゲルマニストである氏は哲学や精神分析がドイツやウィーンで発達したのはドイツ語の文法構造が大きく関与しており、必然であったと断言していました。数年前このコラムでサピアウォーフ説をあげ似たようなことを書いた記憶がありますが、文法構造が話者の志向性、関心対象の方向付け、認識における切り分け、記憶格納時の水路規定など心内で文法構造が暗躍することは間違いなさそうです。
 こういう学説は認知言語学や古代ギリシア期のアナムネーシス、またロックのタブラ・ラサ、ヘルダーの言語起源の研究、
フンボルト、グリムのドイツ語辞書編纂、あるいはハイデガーやガダマーなどの言語をめぐる解釈学等多分野に跨り複数の接点がありますが、焦点が微妙にずれていて専門研究になり難そうな中間領域です。ましてゴルドシュミット氏のような特定言語の傾向を示すことは対象の母語話者から批判を浴びかねません。エドワード・サピアの対象、北米インディアン例にしろ、学者が研究と称し途上国や少数部族の文化生態を探る態度は、動物実験にみる科学や文明の持つ横暴さ、植民地主義に通ずる志向性が露になり、調査対象化された側は必ずしも事の本質を理解し参与しているわけではありません。進歩には犠牲が伴うという居直り、先端医療の実験台となる人々の倫理問題、ワーズワースの言うように、人間の分析や知性は自然に対しおせっかいな行為かもしれず、文明化、情報化は利便性と引き換えに牢獄のような監視社会化を招かざるをえません。しかしドイツ語はマイノリティー側の言語ではなく、現在欧州で最多数の話者を獲得し、文献言語では英語に次ぐ二番目に多用され今生きている強者の側の言語であり、被調査者に対する配慮は不要なのかもしれません。フランス語ほどではないにせよ、ドイツ語と英語は語彙共通する部分が多々ありますが、文法は全く異なります。言語体系の分類上では近親関係(印欧語属 ゲルマン語派というような
学術的トゥリー構造に大きな違和感を持ちます、理由は後述。)にありながら、先に英語に親しむ多くの人にとってドイツ語の複雑な格変化が難解な印象を与えますが、数式の様に論理的で例外が極端に少なく、造語の多さから暗記負担は最小限で済むため、外国人には学習しやすい特性を具えています。この文法の厳格さはエスペラントなどの人工言語や、コンピュータのプログラミング言語にも近い部分があるのかもしれません。では論理的であれば話者に内省へ向かう契機が付与され、フロイト精神分析やヘーゲル観念論のようなものへ到達できるのか?(ゴルドシュミット氏はドイツ語文法が思考を方向付けるという回答のみで、その理由は紙面で答えていません。)これは僕が思うに答えはjein。論理的であるが故にそこからこぼれ落ちる、捨象されるモノ、「コトバで裁断できない存在に気付く」というのが実際で、かつての啓蒙主義とロマン派が対立のように見えて実は
蝶番で結ばれ、相補関係を成し存在していたことと似ているのかもしれません。
 認識段階、事物を分ける際、分節しようとする言語の側が(日本語のように)曖昧模糊としていると、対象されるモノも
ぼやけ、差異の境界が隠され、輪郭を見落としてしまうかもしれません。裁断する鋏の目の細かさ、あるいは櫛の粗さ具合や
形状により、「開ける世界」その射程が大きく左右されるのです。またこれは自分の憶測でしかありませんが、プロテスタントの美徳が資本主義を産んだというウェ−バーの通説は、もしかするとルターによる聖書翻訳からの流れ<ドイツ語が>と主語を置換できるのかもしれません。私達の日本語が内面化し客視できないのと同様、ドイツ語母語話者はそのことに気付くのは困難ではないでしょうか。フランス語話者でユダヤ人であるゴルドシュミット氏のようなエトランジェの視点は言語と世界の裂け目を見逃さないのです。
 ドイツ語という<鋭い鋏>はカテゴリー分け「分類癖」を誘発し、学問や専門研究において道具(言語)が厳密であればあるほど優位に機能し、西洋医学、アインシュタインの物理をはじめ自然科学、ウスターライヒのケルゼンの法学など後世まで賞賛される学術発展を膨大に齎すとともに、一方で人種や民族を過剰に峻別しようとした負の歴史の側面も同時に持っています。
ナチス時代への贖罪表明と連動する形で異文化への寛容さをアピールしてきた戦後ドイツは、多くの先進諸国が経済効率化を
図ろうと、低賃金の労働力獲得と生産工場のアウトソーシングに踏み切る中、ドイツはトルコ等から外国人労働力を大量に
取り込む形で戦後復興、経済成長を続け、その構図を隠蔽する意図からか、使い捨てが念頭にあったのかは不明ですが、同化は主張せず、ゆるやかな統合と耳障りの良い共生をうたい、文化衝突を避ける政策としてしたたかに<多文化主義>を掲げていました。これは一見左派的な寛容策に見えますがその実、経済原理から導かれたもので、民族の差異や異文化が政治利用されてきた一つの身近な例といえそうです。このような変遷をみると歴史や記憶が現在の認識様式を象り、未来の行動を方向付けるからには、現在問題視されるユーロ危機において、EU統合で一体どの国が利を得たかの詳細な検証必要性がでてきます。しかし
報道では個別具体的な直近の統計数値の羅列と、異文化習慣への婉曲批判ともいえる論調が目立ち、欧州連合の存在意義という根本問題には触れられません。対米策としてのヨーロッパ連合という名目から古代ギリシャとローマ帝国という歴史を取り込むことは大義上不可欠だったこと。EU以前地味ながら自律できていたギリシャという国を通貨統一後、観光資源として消費対象、投資対象化し、今になり手の平を返すようにバッシングする経済界の論調に憤りを感じます。複雑化する情報社会において表面報道を現象として眺めるだけではその動的な意味や政治の実態は見えてきません。このような先進国の態度を見ていると戦後ニュルンベルグ裁判で戦犯への処罰は形式的に写り、主導者をスケープゴートにしようとする意図が見え隠れすると感じてしまうのは穿った見方でしょうか。そもそも誰がヒトラーに投票したのか?という疑問に正面から向き合おうとするドイツ人がどれほど居るのか。当事者ではない若年層に至っては関心の外に在り、時の経過「忘却と記録」という行為の政治性を再認識させられ、エルサレムの裁判でのハンナ・アーレントの含蓄深い考察こそ私達に示唆を与えてくれます。日本では戦後ドイツの姿が左派政治団体の贖罪意識をめぐる理想像としてしばしば引用されてきましたが、実際のドイツ人心情はそのように単純なものではなく、鋭い鋏で練られた得意の<法律>で抑圧され、ようやく保たれている側面があり、ネオナチは全てのドイツ人の心の深層に潜んでいると自戒をもってしばしば語られます。重苦しい史実と時事ニュースへ話題が反れてしまいましたが、言語構造の話に戻ります。
 母語構造の有する志向性が様々な認識、判断に影響し社会事象の枠組み形成から立法の方向付けをするとすると、国柄と母語の因縁関係が浮かび上がります。古代から現代まで時代によって指示内容の異なる国家というものを一括りで語ることはできません。また公用語が四種もあるスイスのような国を考えると言語と政治を一律で括ることへ躊躇し、しばしば反論の典型例として持ち出されますが、スイスの特異さを担保する理由が武装永世中立国という独自の立場にあり、ここに言語統一を要請しないそれなりの答えもあるようにみえます。さらに国を奪われたクルド語を話す大量のクルド人、イスラエルで新ヘブライ語を、ニューヨークでイディシュ語を話すユダヤ人とは誰か?という問題も事態を複雑にします。また古代から今日に至る国家あるいは政治意識の源泉には、文法に埋め込まれた格変化や曲用という法則が政体を顕す現象となって沈殿し、それらが階級意識の
痕跡、残存物であることをラテン語やサンスクリット語に触れたことのある欧州人なら誰しも知っています。古典ギリシャ語やラテン語で複雑な文法構造と共に、例外が極端に少ないのは、奴隷制度など階級支配の背景から言語の乱れが政治的に許されなかったと見るのが自然であり、 現代のパラダイムから眺めると大きな誤謬に陥ります。古代言語と封建社会、階級の歴史は世界が民主化されつつある今日、どこか後ろめたさから伏せられる傾向にあるようで、現代人はそれらの経緯への洞察を怠ることなく、伏せられた部分を各自補って理解せねばなりません。
 言語の政治性は日本のマスメディアにおいても流行語がもてはやされる一方、若者の「言葉の乱れ」という戒め報道もなされます。
 言うまでも無く政治的には前者は左派の側から、後者は右側、保守の典型的論調です。流行語や詩的言語はある閾値を越えると統治機構を脅かす可能性を秘めており、標準語が中央集権的に奨励される一方、地方の方言が軽んじられ、東北弁や関西弁は時に揶揄対象にさえなり、権力側からの序列要請によるステロタイプの流布は政治宣伝そのものといえるでしょう。(最近の地方分権の動きで自治体自らがアイデンティファイしようと広報活動する姿は、この十数年の如何わしい伝統ブームの古都同様、なぜ今さらという印象を受けざるをえません。全国画一的リトル東京化では立ち行かなくなったにせよ、風土というものは戦略的に探し出すものではなく、自ずから発露してくるもののはずです。)
 また聖書におけるバベルの崩壊にせよ、冷戦期のスパイ暗号にせよ、プラトンの詩人追放にせよ、そこには<公私>の切り分け、<秘匿と善>という巨大な問題が横たわっており、言語とは世界を切り分ける政治そのものといえます。言語体系の
トゥリー構造を疑う理由は近代以降の大国の言語は、様々な政治意図により人工的に練られた経緯があり、自然言語として並置し分類するのは奇妙ではないかという疑念からです。
 私達に身近で内面化された日本語の特性をあえて見てみると、マルティン・ブーバーが「我と汝」という自他の親近性の問題について強調する際、日本語の特異な性質が露になります。ドイツ語で<あなた>はDuとSie、フランス語ではtuとvous、スペイン語はtu'とuste、イタリア語ではtuとLei...多くの言語は二種、英語ではyou一つしかなく、日本語は、君、あなた、おまえ、おたく、自分(!?)...と複数存在します。これは何を意味するのでしょうか?ヴァリエーションあって豊かだと取るのは早計です。個別の名があるにも関わらず、代名詞でこれほど多種存在するわけは日本の社会、とりわけ世間では場面による<使い分け>が要請され、その結果生じる<表裏>が大前提に在るということ。程度の差こそあれ年功序列は世界中で見られる傾向ですが日本では社会的地位、肩書きを尋ねて、突然「君呼び」から「さん呼び」に変更する人々が大勢居ます。僕は昔からこの切り替え、人間をモノのように対象化し、利用価値で計ろうと態度を豹変させる人々の振る舞いが目に入るととても不愉快でした。日和見、へつらうような日本ならではの政治家的態度、奴隷根性に激しい嫌悪を覚えます。対面する人を交換不能な個人として尊重したい欲求から、相手が明らかに年下とわかっていても敬語を使う習慣が若い頃に付いてしまい、距離をとろうとしていると誤解を招くこともありますが、それらを相殺しても一貫性を保つ方がまだ精神衛生上良いと思っているのです。いくら歳を取ってもこのような世間というシステムに順応したいと思えず、世間内不適合者とされるほうがむしろ
栄誉ではないかとさえ思っているのです。
 文法規則が社会構造を暗示する観点からするとyouしかない英語がもっとも平等主義に立つ言語といえそうです。かつての
大英帝国が植民地各国へどのような言語政策を行ってきたか詳細を知りませんが、英語は話者数が多い故に例外やイディオムが大量に在り非論理的で、抑圧を免れた話者の自然な身体性が顕現しているように見えます。またこの領域で数年間考えていたことがあります。ウィーン出身のウィトゲンシュタインについてです。モノローグ的な「論理哲学論考」は、邦訳されてもなお
極めて美しい書物ですが、彼の今日の不動の評価は晩年の相対的であり意味の外部依拠説でディアローグ的である「哲学探求」の方にあります。一流の学者が同時代に賞賛を得た自説を覆す場合、承認した推薦者や支持者への裏切り、あるいは非連続性が批判攻撃にさらされる危険を伴い、それ相応の勇気と翻すにたる大きな動機が必要となります。この主張の反転は謎に包まれており、同僚との会話がきっかけでそうなったというエピソードや仮説が流通していますが、実際は当人にしかわかりません。
 僕の妄想ではその契機は<生活圏の移動>つまり日常使用する言語、ドイツ語から英語への変更にあったのではないかとずっと感じていました。論考から探求への大きな転回はウィーン、ベルリン、ケンブリッジと生活圏の移動とそれに伴う言語の
比較、差異への焦点化に求めたくなるのです。
 シンプルで親しみやすい英語もシェークスピア直前までの古期英語では曲用や活用があり、ドイツ語に近い部分がまだあったようですが今日の世界語、あるいはリンガフランカとしての使用頻度も含めると圧倒的話者人口で、流動し社会化され、
私的言語の不成立、言語ゲームの契機になりうる自然言語に最も近い言語なのかもしれません。日本は敗戦とGHQ統治期という歴史が存在し、和製英語の氾濫と必須科目として英語が義務教育に組み込まれている為、空気のように身近で内面化されて
気付き難いことですが、日常言語に近い英語は、ドイツ語の様に論理的学習は不向きで、暗記比重が高く、現場での慣れが生命線の様です。しかし当のドイツも大量の移民により、とりわけ会話におけるドイツ語文法の厳格さが崩れつつあり、それを締め上げようと労働者に語学検定を推奨する案も数年前から飛び交っており、ここにもドイツらしい対処法、ドイツ語の志向性が
効いているといえそうです。
                                                                                                           つづく


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2011.12.30 Friday
文化政策という政治
 先日、作家でチェコ大統領のヴァーツラフ・ハヴェル氏が死去しました。また日本の隣国の主席も亡くなられたようです。ドイツのTVでは前者は文化人としての功績にスポットをあて、後者においては国民のリアクションの激しさを繰り返し放映していました。現在は観光地化されているベルリンの壁とアジアの38度線は同じ意味を秘めており、今回のニュースも冷戦期を知る世代にとって様々な受け止められ方をしているようです。ベルリンではレーニン像は撤去され、道路名も改名されていますが、マルクスの像やアレー、シュトラッセはまだ健在です。またハンナ・アーレントやベンヤミンなど近現代の思想家の名が通り名として与えられ日常に溶け込む様はアウシュビッツ後のドイツ政体を下支えるアカデミズムの立ち位置や勢力図を浮き彫りにしているといえそうです。対称的二者の訃報を機にまたユーロ危機に揺らぐドイツの状況も加味した上で日本における政治意識というものの曖昧さについても考えてみたいと思います。   
 政治というと多義的で領野が広過ぎますが、日本で娯楽と混ぜ日々報じられる政局のことではなく、特定のイデオロギーのことでもありません。かねてから興味をもっているのは神学性を帯びた自由意志の問題と、そのフレーム形成に与する偶像化行程で要請され、時にプロパガンダとして作動するコトバや音楽がどのように関係付けられてきたか。また人々の共同生活において社会組織が生ずる以前、部族集団期の掟や儀式、そこで用いられた今日の芸術の原型といえる音や踊り、ことばや神話のシンボル操作、また古代ギリシアにおける詩人追放、ヘーゲルの歴史観と美学など政治と芸術の間に隠微な関係を感じずにおれません。
以前の記事(音楽の背後にあるもの)とも関連しますが、風呂敷文化の日本では、経済効果の望めそうな外来品は輸入吸収し、その際制限因子になるであろう文化背景、由来や意味がしばしば隠蔽されてきました。それ自体政治的行為と呼べますが、各々の出版産業や貿易業者は利益追求が目的で、国家への文化介入の意思など無かったであろうことは容易に想像できます。
 一般に文学や音楽や美術は芸術という、より大きい枠で捉え、総体としてそのさらに上位概念、文化/カルチャーという呼び方がされます。この言葉の語源はラテン語のcultusで「耕す」、あるい「祭儀」を意味し、「土地」、「場所」というものと分かち難く結ばれ、本来切り離すことができないもので、交通手段の未発達な古代や中世期はこれらが外地流通することなく固定されていました。唯一それらが他所に持ち込まれる契機は、広義の布教、あるいは同化や侵略を含意していました。近現代は文化素材が複製され商品化、交通網から世界流通、貿易産業を成すに至り、この十年は旧記録メディアから地球上を瞬時に移動できるバイナリデータへ置換わりつつあります。本来土地から生えるモノがその本来性、極性を失い浮遊往来するIT時代、文化、芸術の在り方、音や美術、舞踏を含め近現代において「祭政一致」をどうとるか?音楽やアートの存在理由は、君が代、国歌斉唱や靖国神社の意義や大戦解釈とも接するデリケートな問題へ直に連なっているのです。  
 また葬儀の行われた北朝鮮は「民主主義」という言葉が国名の一部になり、かつての旧東ドイツ/DDRも民主共和国と訳されますが、デモクラティッシュ・リパブリックという言葉が国名に入っているにも関わらず実際はそのような運営が成されていた形跡はありません。 「命名や表明の恣意性」、つまりコトバの問題は即政治の虚飾性質へ連なり、置き換え不能なものSui generisであるが故に多くの他分野のモノを巻き込み包摂してゆく力として働き、益々実態の見え難いものとして私達の生活の隅々にまで浸透しています。政治を権力という素朴な意味に解釈すれば、かつての力は軍隊、武力でしたが、今日では経済力であり金融工学を支える情報です。途上国への投資しか残されていない飽和状態の後期資本主義体制ですが、かつてその虚飾性を生かし、絵画取引など芸術品への投機へ向かう動きもあったようです。「現代美術はインサイダー取引だ。」と言ったフランスの著名な思想家もいました。マーケットにおいて流される評価情報が権威付けや政治性を持ち、価値が生み出されてゆく生々しさを肌に感じます。
 また身近に居る日本のアーティスト達も政府や大企業、財団の助成金制度やレジデンス申請に躍起で、創作よりも政治家のロビー活動のような振る舞いを日々行う人々も大勢居ますが、本人達は文化政策や政治に接触し、巻き込まれている事態をまるで認識していないようで、彼らと政治の話をしようとすると○党や△議員といった卑近で具体的政局の話や節税といった利害に直結する消費者的話題にしかならず、拍子抜けすることがしばしばあります。
 日本人の政治意識の曖昧さは日本語文法の主体を隠す構造とそれに伴う事物対象化における不明瞭さが衝突回避という習性を呼び込み内面化、凡庸さを美徳とし全体への埋没と自発性をもって滅私へ誘う稀有な特性を内包しています。この日本語が作る日本人気質は日常生活で周囲への配慮、地域の相互扶助を支える良い側面もかつて持っていましたが、ある閾値を越え均衡を崩すと自由にモノが言えない村社会の様相を呈し、匿名言論の逃げ場、仮面のように表と裏の使い分けを要請せずにおれません。またここで培われた幇間さが日本のサービス産業の成熟を齎したにせよ、マニュアル通りの演技を強いる接客労働が人々の内面形成に齎す何がしかの影響への懸念。旧共産圏や遅れて近代化した国々(日本や韓国)で自殺率が圧倒的に高いのは、価値観の転倒、流動、その複雑な歴史から「根をもつこと」の困難さと無縁ではないでしょう。メディアの在る至る所に格付け評価、何でもランキング、消費をめぐる意識調査、占いの類が溢れるのは、私達の価値基準が揺らいでいるどころか、長年転倒したままで、選択や決断において何がしかの指標、権威を必要としている証左、あるいは量的なモノしか信じられなくなっているのか….。
地方の役所、また政府を単なるサービス機関と捉え、公務員バッシングする消費者的世論も広がっていますが、この見方からすると国家はどのように位置付けられるのでしょうか?。同じ流れにある(混合されがちですが右派でも保守派でもない)新自由主義経済政策を標榜する議員が靖国参拝や国歌斉唱を煽り、伝統を統治の道具化しようとする言動は滑稽さを通り越して異様な光景に写ります。歴史を踏まえ、意味付けをした上で保守思想に立つならまだ理解できますが…..。同じ歴史の記号化傾向は古都京都にもいえます。現在の観光客で賑わう京都しか知らない人には信じ難いかもしれませんが、バブル期あたりから大阪の娯楽施設に修学旅行をはじめとする団体観光客を奪われ、お年寄りと質素な学生しか居ない90年前後の「寂れた京都」の魅力を知る人は今や多くありません。当時の建設ラッシュ、好景気に京都は歴史ある故に景観論争もあって取り残されていたのです。しかし自分はある意味バブルに乗れず、お年寄りばかりであるそこに強く魅かれていました。同世代で上京せず地元に留まってきた知人達に話しても、そうだったっけ?とすっかり忘却しています。景観関連の条例は直接的な政治ですが、ここで問題視したいのは文化を偽装する経済原理、雅やかな外観から見え難い醜態です。過剰な観光客招致は交通網を機能不全にさせシーズン中、車を運転するより徒歩移動のほうが早いほどの渋滞が起きます。ただその手の不便は耐えることができます、耐え難いことは具体的な利便に係わることではなく、精神的なことです。周囲の視界を塞ぐ巨大な観光バスの群れとバーゲンセールに集うかのような行列、夥しい群集は住民の観照を不能にさせます。神社やお寺は新たにオープンしたわけでなく、慌ててかけつけないないでも数十、数百年前からその場に在ります。鉄道会社や旅行会社のキャンペーンは巧妙ですが、伝統ブームに乗って古都巡りをされる引退された方々も中学で日本史は学んだはずですが、数十年間、視界から歴史が消えていたのか、TVや雑誌、旅行ガイドなどカタログ状の外部情報に動機を求めなければ内発的には選択肢にも入ってこないということでしょうか?。中央集権から脱し、地方が自律、自活することは急務ではありますが、安易な文化財依存を軸として進め、そもそも住民、個々人の歴史や記憶の舞台であった公共財というべき駅の名称を変更したり、その迎合ぶり、露骨さに興ざめしてしまうのです。いかがわしい伝統ブームはグローバル化に抗がろうとする無意識、日本の心などというステロタイプが喧伝されますが、保守思想とは何の関係もない経済活動、伝統や文化の消費対象化、商品化に他なりません。京都のケースとはやや違いますが、昔よくドライブに行っていた日光は寂れ、かつて空いていた奥日光は紅葉時観光客で大渋滞が起こる。温泉で全国に有名だった別府はシャッター街で、湯布院は賑わう。これらの落差、経済効果における明暗がその実態によって素直に顕現したと考えるべきでしょうか?。歴史ある本家らしきものが廃れ、後発者が勝利する、家電製品などはスペック向上と量産による低コスト化が消費者に後発性の優位と写り肯定に至ります。しかし文化的なモノはその図式に乗りうるでしょうか?インターネットの普及から民主主義的言論の場が開かれ、トップダウンに資本投入され流布されるトレンドへの懐疑が叫ばれる状況にありますが、一億総発信者化に向かえば向かうほど価値が揺らぎ、認知限界の不安から権威が再び要請されるジレンマに陥らざるをえません。 
 2011年も過ぎ去ろうとしていますが震災後、故郷や絆という言葉が広く流通しています。自明であるこれらの価値が戦後、とりわけ平成以降忘れられてきたことへの反省は聞かれません。根本的な価値を忘却する為には、それに取って代わる巨大な関心事が人々の目前に日々出現しなければならなかった筈です。それは何だったのでしょうか………。
                                          つづく
            みなさま、よいお年をお迎えください。

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2011.12.19 Monday
19.Dez.2011
連日0℃前後と比較的暖かいベルリンのクリスマス。

あちこちにイルミネーションやサンタクロースの人形が置かれ、ちびっ子達がはしゃいでいます。
サンタさんを信じていたのは自分の世代だといつ頃までだったか想い返してみる......。

情報過多の現代の子供達はせいぜい幼稚園までか、もしかするともっと早くに見切ってしまうのかもしれません、
どこか寂しいハイパーリアルな時代。
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2011.11.29 Tuesday
音楽の背後に在るものと内なる神
 キリスト教の話の続きで、音楽についてです。私達の国、日本は地理上でアジアに位置するにもかかわらず、西洋クラシック音楽のマーケットがそれなりの規模で存在します。幼稚園の遊戯に始まり、合唱からリコーダー、オルガンなど小中高の音楽科目、音楽大学、専門学校、あるいは街の子供ピアノ教室などの教育施設、また都道府県所有のオーケストラ、楽譜出版、クラシックCD、放送局を通じて大量受容され、ショッピングセンターから飲食店のBGMとして、近所の市民会館などでも国内演奏家による西洋クラシック演奏会が精力的に企画され老若男女を問わず日常に溶け込んでいて、その浸透度は発祥地で本場のドイツやイタリアを凌駕する程、身近な存在となっています。
 しかしながらその音楽がどういう目的で作曲されたかというメタ領域、存在理由へ注意が向くことは殆どなくJ.S.バッハとルーテル教会の関係を語ろうとする人はごく僅か、読譜とリハーサルに日々追われる日本のプロの演奏家においても政治性や宗教性が意識されることは稀です。またコンサート・プログラムにおいて広報として発せられる紹介文等でも、各楽曲についてそれらが生まれた時代背景、委嘱経緯、動機付け、音そのもの本来性へと焦点が向かわず、タレント風に語られる演奏家の素顔などに比重が置かれることが通例となっていて、この段階での<読み替え>が日本におけるクラシック音楽の特異な姿、煌びやかに演出された「商品性」と啓蒙意図、明治以来連綿と続く欧米という先進国、権威により示唆される学識への脅迫観念の惹起を巧みに利用し、営利と教養という対立概念の相殺から生じる独特の曖昧性を形成し受容者の内面を模っているようです。
 音楽に限らず日本における西欧文化受容の多くのケースで、歴史背景が捨象されモノカルチャーとして輸入されてしまう傾向にしばしばヨーロッパ識者から警鐘が鳴らされてきました。またクラシックに限らず輸入音楽市場としての日本のマーケットの大きさは、欧米のレコード業界や音楽家達を本国での扱いを遥かに凌ぐ厚遇にて長年支え続け、ジャパンマネーが海外のレコード産業の経営状況を大きく左右する場面も見受けられました。日本における輸入文化受容の特異な在り方、その深層に短文で迫ることは極めて困難で、日本の近代化プロセスや欧米への劣等感、敗戦への省察などが錯綜し総括を留保したまま、自国文化や風土保全の調和配慮からくる異文化受容への慎重な保守的態度は歴史における贖罪意識から排他的と否定され、圧倒的声の大きさでうたわれる経済成長路線、教育や芸術、娯楽産業さえ財界主導により、今日のダイバーシティ化に至る前段階までは一律にTV新聞を通じ、理想像が提供され、そのレールの上で趣味や余暇時間さえも消費されることを習慣としてきました。
 王室や国家、教会からある種の使命を課せられ生まれた儀式の為の音楽も、CDとして日本に輸入されたとたん、背景や意味がすっかり削ぎ落とされた無色透明、娯楽コンテンツの商品の一つとして扱われ、私達の認識もその読み替え、情報注入の形式から象られてきたといえそうです。この受容のされ方は構造主義による記号の恣意性でも、日本人特有の風呂敷文化観でもなく、明治以後の急速な欧米化、富国強兵のなごりとそれを支えるべく要請される経済原理によって文化や芸術を裁断し意味隠蔽し消費対象化してきた結果ととるのが妥当で、ここで美徳とされてきたものはまたも読み替えられた中庸であれという当為なのです。
 ヨーロッパやアメリカにおいてクラシック音楽やオーケストラというものの在り方はセレモニー演出の装置として政治的に強い意味を未だ秘めています。古代ギリシア・ローマ、中世、近世以後もキリスト教の教義、あるいは宮廷の象徴という役割と密接で切り離すことができず、それらは今日演奏されるコンサート会場においても、強い意味を伴って時に再生起され前景化することもあります。
 クラシックという言葉の意味は一般に古典と訳されますが、語源であるラテン語を調べるとclassicus軍隊の、艦隊の(LEXICON羅和 研究社)classis 種類、階級(教会の羅和辞典 ホアン・カトレット編 新世社)という国家や軍事的なものにたどりつき、古代ローマ帝国における愛国心や階級性に由来することがわかります。古典という意味は古代からの長い年月を経てもなお継承されてきたことを後に指すようになったのでしょう。
 何か堅苦しいことを書いていますが、音楽は周辺情報に忠実に教科書通り(その音楽の生まれた国の)に聴くべきなのでしょうか?もちろんエジソン以降、レコードやCDなどの記録メディア、あるいはデータにより複製され時空を超え往来、蓄積された過去遺産を自在に取り出し楽しむことのできる環境が身近に整備され、限界なき自由がリスナーに与えられています。知識を排し感覚のみで音楽に接することは必ずしも悪いことといえず、自分も80年代、情報収集困難なパラダイムも手伝って熱心なそちら側のリスナーで、今想い返すと多くの誤読もしていました。しかしその誤解や失敗、遠回りは大半の現代人にとって無駄な時間ですが、自分にとっては自己確認および世界の奥行きを洞察する上で貴重な契機となり、先入観や情報の恐ろしさ、プロセスの重要さを身をもって知ることができました。
 音との対話経路は聴覚を通じ行われますが、マイクやセンサー類と耳や人体の器官は根本的に異なるということ。音を空気の振動と還元して捉えるのではなく、メロディーのゲシュタルト抽出、知覚法も過去経験の蓄積、歴史性に依存し、今生起する音も、ミリ秒単位で過去を含み、過ぎ去ったメロディー残像を心内照合しながら次に鳴る音や変化への期待を統合して音楽聴取は成立しています。現象学は解釈学と蝶番になりはじめて機能することを私達は身近なリスニング体験を通して知っているのです。「聴くことと態」について、いずれまとめて書きますが、時空が捨象され並列されるインターネット時代、記憶を外部化し健忘生活へ誘う現代のIT社会において、ガダマーの「地平融合」という視座、対話の姿勢が益々重要になってきていると痛感します。
 音楽の大雑把な分類法にポピュラーとクラシックという区別がありますが、クラシック音楽の最大の特徴、その古さ、歴史ももちろん含みますが、それ以上に何がしかの<ミッション>を背負っているということ。(国家の礼賛、記念日やパレードなど、王の権力誇示、教会あるいは聖人の祝祭等...)そういう意味でクラシック音楽は祭儀、政治性と不可分であり、作曲家の心情は厳密には排除できないにしろ、個性が前景化することは想定されないのが通常です。封建から民主化へいたる近現代音楽はその境界が曖昧になりますが、委嘱で製作される点<他律的な>存り方という意味では今もさほどかわりません。それに対してポピュラー音楽は娯楽産業を稼動させ、商品として<消費される為>に生み出されるものが圧倒的多数、他律である点は同様ですがここでの主は貨幣経済で量的なものが価値を支配し、序列から逃れることができません。そしてもう一つ類型的に語ることのできない重要な区分、個としての表現<内発的表現>、ここでは第三の道<内なる神の声>としておきます。これは音楽以外の他分野で古代壁画から宮沢賢治までを限界芸術と呼んだ鶴見俊介のコンセプトに近く、また20世紀のアメリカ発祥の音楽、ジャズ、ロック、ソウル、ヒップホップ、テクノなどのごく「初期のモノ」、未だジャンル名が命名されない始めの数年間のものもこの第三区分に分類すべきだと考えます。アメリカという国において、先住民や欧州からの移民、アフリカからの黒人や持ち込まれたプロテスタンティズム、あるいはジョン・ロックの思想などが野合、調停するため、各地から集まった異邦人達は孤独さゆえに帰属先を渇望します、土地と人間のイニシエーション、関係付け、それは内省の声であり、内なる神との対話、つまり生そのものとしてある。それは時に既存宗教へ結びつき、時に音楽やアートなど創造への没頭、自己表出への源として、精選された種が区分けされた温室に撒かれるのではなく、雑草が生えるように力強く育ち実をつけたのです。
 20世紀の音楽の歴史をアメリカ一国が席巻できた最大理由はこの特異な還世界にあるに違いないと90年代から考えてきました。科学技術が隅々まで浸透する今日、伝統と古い教会や宮殿が乱立するヨーロッパにおいて宗教は形骸化され、歴史建造物は観光資源化されています。真の意味で宗教が生活に根付き動因となっているのは歴史の短い大国、アメリカにおいてなのです。米国での動物権なり、環境問題など社会運動のファナティックさについて前回書きましたが、これらの区分は宗教でないものの、そこからの分岐、派生した新たな帰属先という側面を強く持っていて、このような民衆の信仰心の対象変化、多様で複雑化した動きは国家の統合や安定を脅かし、監視社会化へ向かう一つの動機にもなっています。
 内なる神は内側から駆り立てられるもの、誰からも依頼されず、自らの愉しみ「遊びの延長」として自発的に生起しますが、それらが結実し第三者の視線により社会化されるに連れ、名前もなかった「遊び」にジャンル名が付与、命名されラベリングされたとたんに商品化、市場流通し、居場所はポピュラー音楽/商業音楽へ移行。経済活動を生み出しますが、かつてそこに在った内なる神はすでに死滅し、形骸化した「抜け殻」が複製され流通、発祥地や国をも超え拡散、伝播されてゆきます。僭越な言い方になりますが、多くの音楽家はデビュー時1stアルバムは素晴らしいが次第に.........ルーチン化し..............という例は散見されますし、そうならざるを得ない産業構造的問題も抱えており、また販売促進時の巧みな言葉を纏った広告や付随情報は内容受容にむしろ障害となり、一定の商業的成果はこの質的問題を隠蔽してしまいます。外的要因に操作され、他律的、打算や迎合的態度から内発的神は失われ、万人の顔が異なるように全て違っていたはずのそれぞれの受容の器、つまり心「内面の器」は経済活動という外因により変形され計量可能な「均質の器」化してしまった結果、二度と元の形には戻らず、そこに神は戻ってはきません。ここでいう神とはキリスト教や仏教など特定宗派のそれでなく、むしろスピノザのいう汎神論的、あるいはその人なりの「個別の神」です。前回の金融と宗教、権威主義の問題からも通低し、長々書いているのは「心の振る舞い」方、つまり創作における<動機の純度>のことなのです。これはクリエイターのみならずいちリスナー、あるいは音楽以外の文学や映画、美術愛好家も同様、心の在り方は世界との対話法を大きく方向付けるのです。
 神の宿る<内面の器>を需要や要請に適合、変形させ、本来性を喪失させる直接因を誘うのは他者の視線、社会や無駄な情報ですが、これらはいくら膨大であっても外圧による強要の域までは至りません。そうではなく個人の内面の弱さ、卑しさこそが理性的判断、評価への打算が先立ち、虚栄心へ向かわせ倒錯に結びついてしまうのです。このような個の器に宿る神は、万能ではなく、社会の要請や有用性とは相容れません、迎合は即自滅を意味するのです。
 だからといってこれら内なる神々が特殊なモノということでは決してなく、この内発性、内なる器に宿る神の正体は、幼い子供のころ、万人誰しもが持っていた遊びへと駆りたてるモノ、原初的情動と通じているのです。しかし子供は成長-教育過程で、生存に最適化するあまり合目的なモノだけを志向させられ、周囲のしつけにより好奇心や遊びを桎梏と見做すにいたります。受験や就活競争が一段落した成人後、与えられたささやかな余暇の時間を紋切り型のレジャーや用意されたゲームに費やし、そこに意味を見出すことの困難さから死の予兆と虚無感に襲われ、ただ無思考に生き延びること、働き納税することが唯一の価値であり、そう自己暗示することで自己防衛策をとるしか道がないことを空しくも発見してしまう。しかし音楽や美術は私達に生や本来性を呼び覚まししてくれるものではなかったのでしょうか。芸術は何がしかを象徴することはあってもそれ自体、合目的な存在ではありません。役に立たないにも係わらず数千年以上、形を変え連綿と続いてきました。私達がその本来性への回帰を渇望する時、何がしかの権威の象徴であるクラシックでも、消費されゆくポピュラー音楽でもなく、少なくとも自発的に生まれた、第三区分の内なる神により受肉された音楽、作曲や描画でも技術依存化が進むIT社会でも、個の器に宿った神、そこから生じた芸術は本来的生と密接であり続け、権威や消費と無縁です。リスナーや愛好家も本来的「個の器」を保持している限り同様、もしくは作者以上にそこから何がしかを汲み取り、其々の勇気へと昇華することができるはずなのです。仮に芸術分野で才能というものが存在するとしたら、この内発的、神の宿ることのできる器の持続的把持の術なのかもしれません。

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2011.11.23 Wednesday
神々の住まう地中海
 ギリシャに始まる欧州金融危機が世界を覆っています。ユーロという統一通貨導入時の地域間、非対称性の中和、南北問題に通ずる東欧諸国への開発投機、歴史建造物-観光資源を担保とした投資、いかがわしい独仏による兵器貿易など、そこに不当債務と解釈できる類のものが存在したか否か、断片情報は目にするものの、その真相は経済学者の分析を注視する他ありません。  
 ただどうも気になるのは日本での報道時に付加される”公務員比率が人口の○%〜.......”といったどこかで聞いたような通俗的コメント。騒動の主因が人々の怠惰にあるかのような言説が大々的に流布され、ごく一部の事例をフレームアップし、総称化しようとする意図が随所に顕れ看過できません。(しかしこのような論調は、必ずしも報道側の問題とも言い切れず、新聞読者や放送視聴者側も情報過多による認知限界から経済性、時間節約から要約、あるいは権威への因習性を未だ好む傾向にあり、相補的に生じている現象のように見えます。)  
 西暦というキリスト教の暦で運行する欧州社会において、一つの仮説としていえるのは、現在の金融危機で問題視される国々の文化背景、直接因ではないにせよ、その主たる国々の習俗を司る宗派は、スペインにしろ、ポルトガルにしろ、イタリアにしろ、アイルランドにしろ、みなカトリック国であること。ギリシャは三位一体におけるフィリオクエ解釈で分裂した正教会ですが、資本主義システムの成り立ちが宗教改革以後、プロテスタンティズムの<倹約習慣>から派生し育まれていったことを鑑みると、今回の債務国は覇権側のプロテスタント的アビィトゥスの外に在り、また風習、文化的適合率のようなものが必然として露になったとも読めるのです。しかし報道ではある種の配慮からかそのような言い回しを避け、陰湿ともいえる勤勉か怠惰かという座標で婉曲表現をします。緑豊かで自然の恵みに包まれた地中海に面する温暖な国々と、冬季はマイナス十数度に至る国々の間で、資源や農作物を始め、人々の労働環境が同様に成立するはずもなく、欧州連合はこれら各地風土の捨象を含意、往来する貨幣、商品と共に人々の内面までも均質化し拘束させようとするその構想自体に無理があったことは容易に想像できますが、その反省へ向かわずに責任転嫁と読める言説を特定国へ繰り返し発します。プロテスタント信仰者の厳密さ、潔癖を貫く習性からすると、カトリック信仰者にしばしばみられる浪費と寛容さの混合、装飾癖、遊び心などを厭悪しているようにうつります。(誤解無きように付け加えておくと、ここでは人々の信念がモノの見え方や行動を左右するというメンタリティの観点から各宗派における慣習を比較し眺めているにすぎず、いずれかの教義の優位をうたったりくみする意図はありません。十数年以上前から感じている卑近な例では、ライシテで弱化しつつあるとはいえカトリックの風習が古層に根付くフランス、あるいはホーリーシーを包むイタリアではファッション産業(実在人物の名を冠したブランドが崇拝対象化され多数ある)が発達し、一方のルターの国、ドイツでは服飾であれデザイナーは匿名もしくは脇に在り、スポーツウェアなど装飾よりも機能重視に偏る傾向、あるいは自動車や工業製品、合目的な精密機械製品において優位にある様、両宗派の傾向差異が如実に見てとれます。)  
 中立を装いながらも相補的でしかありえない第三者調査機関や資本に下支えられる報道機関の言説は常に経済成長至上の側から計量的眼差しによって放たれ、その語彙選択の陰に見え隠れするのは、自らスタンダードを標榜し、格付け機関のような超越的場からなかば強要論調と態度、もっと言うと、正義なり、絶対悪なりといった価値尺度が自らの側に在するかの如きそれなのです。家父長主義の匂いもする言説の尊大さは、急速に世界に浸透した禁煙運動や、どこか不自然で偏狭な環境運動の潮流と同質さをもって響いてきます。諸事情から喫煙を十年程前に止め、環境意識も人並に強いつもりの自分にとっても、ファナティックなエコ運動にその目標の美しさに反し、意味文脈を置き去りにしたドグマ強要、自然が人類の制御下にあるかのような不遜な言説、念仏合唱のように振りかざされる当為に違和感をおぼえます。それは倫理判断における逡巡の無さ、その機械状の心を下支えしているのはある種の信念、信仰に因るものだからでしょうか?。地球温暖化や禁酒禁煙など近年の超国家的潮流はキリスト教と直結していないものの、免罪符をきっかけに分化したプロテスタントが数百年の時を経て独から英、そして今日の米国ファンダメンタリスト達へと橋渡しされ、教条主義的態度は多様化した他分野へも投射され、ある種の心の振る舞いとして継承され血肉化、固着してきたように見受けられます。  
 ドイツ北部や北欧など、厳しい自然環境と対峙するため、生存の知恵として要請された<倹約習慣>は近代科学技術の席捲からも肯定され、内部にそれを取り込む形で梃子の役割を担い、切り詰めや几帳面さが美徳化、この習慣は対象を全方位へ更に拡張させ、際限ない分離、分節習慣から産業における分業体制を招き、人間疎外を齎します。ここで生じた人々の孤立感が、新たな安息地、対象を求め解剖学的視座と共に再び探索運動への流入を促がさせ循環拡張、再帰性をもって自己増殖運動を続けるのです。また経緯、工程よりも成果、数量的帰結の側から評価検証する功利主義とも野合する形で個人の権利拡大はカテゴリー細部化、ダイバーシティ化へ結びつき、不断の価値流動により生まれる余白は即座に埋められ消失、法制度化が細部まで網目のように張りめぐらされ、アングロサクソンが主導する形で今日の無菌社会の原型へ至ります。多様化、階層構造化から開示される新たな対象へのアタッチメント、動物愛護や環境保護などの権利拡張は、伝統排除を含む近代的自我を前提とし、耳触りの良い地球環境への保護や解放を主張しつつ、そこで指される自然は、カタログやリゾート広告写真に見られるような一面的表層で理想化されたシュミラクル 「商品化された自然」の記号像の数々であり、資本主義体系との強い親和性、あるいは同根のそれで、旧来の習俗にみられた風土への馴染み親しんだ愛着や童話や神話に織り込まれ、死と隣接していた、大らかかつ崇高な自然観とはかなり温度差のある特異なもので、その特殊な分節法と自己愛と不可分なオプセッシヴな感情から、ある種のセクト色をも帯びて立ち現れることもあります。人類が地球を支配下に置いているかのようなこの傲岸な態度は 科学技術信仰から導かれ「自然の所有」、遺伝子研究は医療におけるバイオエシクスに至るまでカッコ付きの技術および人間中心主義は、価値体系の流動、ヒトと自然の境界線を揺るがし、多くの課題を私達に投げかけてきます。しかしいかなる権利というものも何がしかの排他を内包し、摩擦が付随する、飽和に達した資本主義社会ではかつて在った地縁や人々のホスピタリティも失われ、地域の安全装置といえる歴史や文化、伝統を踏襲しないがゆえに宙吊りにされる個人の精神、代替として導入されるサービス産業の提供するマニュアル化された接客や作り笑顔に取り巻かれること、それさえ客、消費者としてのみの契機付与に過ぎません。合目的、効率化、分節習慣という、自らの指向性から幸福追求した結果、逆説的に齎す困惑、不安の解消は、束の間であれ新たな帰属先の発見と再参与しか残されておらず、美しく自分を装い、アイデンティファイできる素材として利用可能で好都合な対象を物色し捕らえ、それをミッションとして据え道具化しようとする意図、そこに見え隠れするのは表象としての美しいコトバはどうであれ、公共心起源のものではなく、アトム化した個の孤独感とその根源にある死の気配、それらを懸命に打ち消そうとするどこか歪で卑しいナルシズムなのかもしれません。<私>という一人称で語られる限り個の心の安全装置足りうる帰属対象も、主語が<われわれ>へと置換され、集団化したとたん、接木された動機と振る舞いの不連続さから大きな物語へ通ずる脅威とみなさざるをえません。これらの傾向は伝統を欠く多民族国家で人種の坩堝であるがゆえに依って立つ保全装置としての信仰を必要とするアメリカで興隆し、軍事力に裏打ちされた経済力で世界の潮流の枠組みを作ってきたことは言うまでもありません。ビオクラシーの話に突入し長々書きましたが、今回の金融問題で不当糾弾されるカトリックの国々の慣習とは相容れない、覇権側アングロサクソン、単純還元できないにせよプロテスタントの末裔といえる資本側(報道機関)から発せられるコトバ、報道でアップダウンされる言説、とりわけ根拠のないラベリングや個別事象の総称化、全称化を匂わす論説はある種の政治性を帯び発信されていないかどうか背景を汲み取りながら一定の距離を置いて触れる必要がありそうです。  
 米国に比べ長い歴史のある欧州において、人々の内面を支える宗教が、その顕れとして彫刻、絵画、音楽など数多くの派生物を生み、共同体内の取引から法整備の要請、各学問の興隆に連れ、社会規範が形作られるその過程においても母語特性と習俗-信仰は再帰性をもって人々の判断軸隅々にまで侵入、集団特性の在り方、フォークウェイズのようなものの確定を強く方向付けてきました。この長い年月経過で培われた準拠枠はグローバル化やIT化による世界の政治力変容、通貨や法制度を書き換えられてもなお、崩れぬ強固な根を張っています。大まかな傾向ですがカトリックの国々の共同体内では、プロテスタントの人々が過信する人間の理性、自由意志を疑う傾向があり、人間の弱さと赦しをより切実に引き寄せたかたちで温和さ、隣人愛をもって人々の相互接合を成立させています。これを人情深いととるか、不透明な談合ととるか、慈悲深いととるか、怠惰ととるか、解釈者のおかれた文化背景に因らざるをえません。(翻訳され、日本に届くEUの情報は時にアメリカ経由の落下型報道であり、地理的にも言語の壁からもボトムアップな意見や態度に直に触れる機会は皆無に等しいのです。)キリスト教では多くの愛の種類が存在し、代表的なもので神へと上昇するカリタスか、束の間の快楽で人を惑わすクピディタスか?という問いがよく聞かれます。現代社会において、合目的で短期的利を積み上げて膨張しようとする後期資本主義、長文を忌み嫌い、要約短文や印象判断が好まれるIT社会の傾向は、巨視的に危険を孕んでいても、脆弱な私達の意志は逡巡を避け、印象や感覚優先に快楽を追う後者が圧倒的多数で選択され、サンクションに怯えながらも「遊び」ならぬ用意されたゲームに溺れながら無限誘惑の海へ踊り込まされる他ありません。世俗化され、全てがバイナリ化、浮動する意味世界、分離接合運動を繰り返す夥しい量で迫りくる情報洪水の社会で、今日、宗教や教会が聖なる存在たりうるかは疑わしいところです。しかしラテンの国々、あるいは東方正教会の国々の民衆にみられる価値観は、プロテスタント的エートスを据える先進国とは赴きが随分違っています。カトリック教会へ作曲されたオリヴィエ・メシアンの音楽の数々は、聖なるものとして産み落とされてはいますが、その内部に流入する澱や毒のごときものの気配なしに、メシアン宇宙、そこに在る重厚なパトスの内部運動は成立しえません。聖なるモノ、高貴なモノと 俗に留まらず悪に至るまで、非力であるいち人間、堕落者の共存、あるいはマフィアのような悪党とされる人々まで、寛容さと遊び、余裕を持たせ、全てを包み込むカトリックの懐の深さは、どこか浄土真宗の親鸞の悪人正機とも重なるような奥行きを感じ、今日の世界潮流、監視カメラだらけ、制裁の提示により安全を担保しようとする無菌社会よりよほど<生に根ざした>共同体存立を提供できうるのかもしれません。パレスチナに始まるキリスト教の長い歴史とその諸相の奥深さ、多様さに改めて驚かされます。  
 ヨーロッパの各宗教は、信仰者でない者にも、絵画や音楽など文化派生物という形で私達を巻き込み、楽しませてくれました。また政治の側からも世界を大きく揺るがしてきました。表向き多文化主義や共存を装う先進諸国において、古代に遡るヘブライズムの唯一神とギリシャ・ローマの多神教世界、ヘレ二ズムの確執、また中世から近現代までホーリーシー/バチカンを軸に、アングロサクソンとラテンの鍔迫り合い、神聖ローマ帝国から海を隔ててラテンアメリカに至るまで数世紀にわたって形態変化しながら、連綿と続いているのかもしれません。
                                          つづく

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前キリスト教的直観 甦るギリシア
シモーヌ ヴェイユ

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2011.10.31 Monday
結晶化したコトバと動的知
 外国語の本をあえて読んでみるスリルは一種の謎解きゲームのようなものです。情報収集、あるいは小説のように時間軸に沿う筋があるものは翻訳書がある場合、手早く内容把握できるので迷わずそちらを選択するのですが、どうしても原書に触れたい欲求に駆られる類は、作者の内観、精神がコトバとして結晶化した神学や哲学、詩という形体のものです。とりわけ詩は翻訳不能といわないまでも文化圏を越えて意味往来が最も困難な分野で、それ自体間接的でもあり、比喩に溢れています。また古典ギリシア語などは英語や独語経由の転訳も多く、何重にも移転解釈された末、日本語へ至る場合も少なくありません。
 外国語の詩の読解は、言語間で語彙対応関係が成立しない場合も多く、メタファーは風土や文化背景を多分に孕んでいて、それらの加味と再綜合を読者に要請します。また、詩においては解釈における明確な一つの答え、正解というものが存在しない分、取り組む楽しさもあります。但しこれはかつてフランス輸入品として流行した「作者の死」というテクストの立場を支持するものでなく、むしろ反対で、一時的に誤読がなされても、やがてそれは文化背景を参照される毎に自ずと是正へ向かい、経験と共に心の始源に埋め込まれている動的隠喩作用、括弧付きの学習能力が自律稼動することにより真理値へと再編成され、予定調和が成されてゆくように思えます。
 文字による世界は指示の曖昧性とともにロマン・インガルデンのいう<無規定箇所>に溢れていますが、解釈の幅を超える誤読が読者に起こるとそれ以上読み進むことができず、立ち止まらずをえないのです。
 以前ラテン語を教わったH先生(古典ギリシア詩の暗唱名士でもある)から半年間、「辞書厳禁令」が出されたことの意味がよくわかります。”語彙に関して、意味誤読のまま読み進んで構わない、逐一辞書で確認しようとしないように......”と。つまり意味を把持できない、暫定的でいわば変数の様な措定の域に留めたまま話を読み進まねばならないのです。意味誤読固定したまま語彙を心内に格納-参照を繰り返していると、いずれどこかの場面で辻褄が合わずコンフリクトを起こします。その時点で想像力を最大限使い、コンテクストから相応しい意味を類推せざるをえず、この心的に不安で面倒な再考手続きは後に想起の契機にもなり忘却を逃れ、強いエピソード記憶として結実します。逡巡したり、類推過程を通じ得た知は、アドホックな対処療法というべき丸暗記情報とは性質の全く異なる柔軟さを備え、後に応用の効く知として固着、身体化されます。
 私達の日常の隅々に浸透している情報技術、電子辞書やWEB検索などはスピーディーで有用です。しかし高速で調べ、得られた情報は忘れるのもそれだけ早く、記憶に沈殿しないということ。知の獲得までのプロセスにおいて、回り道や寄り道など複雑な経路を辿ればその分、忘却を免れ長期記憶として貯蔵され、他分野への転用へ融通も効くと経験から実感される人も多いはずです。
 その一方で世界は技術依存化、全てを外部ストレージ化させようと、歴史忘却、健忘の道を驀進中です。このような言説が流通し圧倒的量とともに肯定化される背景には、巨視的に熟考せず、場当たり的振る舞いをする大衆こそ扱いやすく、商品やサービス提供する企業にとって歓迎される消費者像であることから、経済成長を国是とする先進国にとっても管理面からも何重にも好都合で、無菌社会化、生き難さの原動力となっています。過度の監視社会は文化側面からも、孤立する個の在り方にとっても悲観的にならざるをえません。中央集権から衰退した地方の自治意識、消失した中間組織、治安を根底から支えるこころの視座からも、アトム化した個は連動広告に支えられた検索エンジンに操作され形作られるブリコラージュ状の人格を成し、実在しない類型的仮想物の集積された心は自己崩壊するか、周囲の安全を脅かすものへ至る可能性すらあります。自分の住所や家族の名前までも外部保存し、サーバー接続しないと思い出せない、そんなSFじみた時代もそう遠くないかもしれません。かつて日常的に誰しもおこなっていた電話番号暗記を不能にしてしまったのは携帯電話の普及と依存によるもので、それは内発的選択ではなく環世界の変化です。プロセスを軽視し、得られる早さ、安さ、量の正体。社会の技術依存化は本当に有難いものなのでしょうか.........。
                                              つづく


ヴィーコ 『新しい学』の口絵より引用
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