2017.09.14 Thursday
肉の眼と心の眼
「すなおな心」と「捻くれた心」創作に正面から向かう際、必要なのはどちらでしょうか。芸術を正面から受け取る為に必要なのは、澄んだ心か、捻じ曲がった心、いずれでしょうか。技術の駆使、あるいは頭脳で計ること、珍奇さの追求、知的操作が創作でしょうか。解釈の多様という名のもと、自らの「傾向性において」対象を恣意的に”裁くこと”が鑑賞でしょうか。未知のモノに触れるとき、異文化の人と交わるとき、「わからないもの」をわかろうとする時、妨げとなるものが我執や臆見であり、必要とされるものが愛です。ものを送り出す側も、受け取る側も、感覚や頭脳の<浅い層>に留まり、自ら動こうとせず受け身の姿勢で愛を紡ぐことが果たして可能でしょうか。「潜心」を許さず、双方向性や参加型という目新しい文句で外部に連れ出されること、そのことで、崩れ去るモノはなんでしょうか。外界の誘惑に引き摺られ、忙しなく動き回る感官を鎮静化させる必要性。感覚や頭脳はそのままでは功利的にしか作動しません。一見利他的に見える振る舞いは多くの場合、思惑や演技がそこに巧妙に入り込んでいます。しかし人間は「信じること」、「ハートを軸にすること」で、利他的なことを自発的に成し遂げることができます。モノを作ることは対価を得る為だけではなく、無償の愛を与えること。そこに必ず労苦が伴います。模倣や楽して何かを得ることなど、ありえません。打算によるもの、産みの苦しみ無きところにものは生まれず、悲しみ無きところに愛は働きようがないのです。
弱肉強食といわれながら、なぜこの世に「弱きもの」、「小さきもの」が生かされているのでしょうか。老い滅びゆく私たちは、小さきものになぜこれほどの神秘を感じるのでしょう。現代の情報社会、どうしてこれほど素直さを嘲笑するような、蛇の知恵で溢れかえっているのでしょうか。狡猾な屁理屈を浴び嘔吐感を覚えない人、それらに不感症である人は、もう既に順応してしまっているか、元々そのような性質の持ち主なのでしょうか。情報洪水に晒される現代人の「荒れた心」を洗い流す為、あるいは肉の眼でなく「心の眼」を開く為に、今日の芸術は有効性を持っているのでしょうか。
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