2020.09.28 Monday

    

暗い時代における天上

 須賀敦子の本棚シリーズで、久しぶりにシモーヌ・ヴェイユを読み返しました。自分の老いもあるでしょうが、以前と全く違うように感じ、複雑な思いに駆られました。それは好意的な意味でヴェイユの若さと独りよがりさが目につくようになったこと、カトリックと彼女の距離、洗礼を拒んでいた理由が、彼女の神学の理解にあること、そのことが依拠する哲学の中、言葉の端々から感じとることができます。本文中、アリストテレスやトマス・アクィナスへの偏見が覗きみえますが、地上を信じることなどできない悲惨な時代を生きた彼女にとって、やむを得ない部分もあるでしょう。自分も長い間、ギリシア哲学でもアリストテレスを避けプラトンに向かい、古代-中世神学においてもトマスを避けてアウグスティヌスに浸ることで、超越性に触れ、内的安堵、魂の安らぎのようなものを確保していました。しかし今は双方欠くことのできない遺産である、あるいは前者の方が生きる上で不可欠であるという心内整理に至っています。ヴェイユの身近にあった文献、資料がどのようなものであったか想像するしかないですが、膨大なトマス神学について、スアレスやヴォルフ主義を経て変質し、分化された断片的なトマス神学にしか出会わなかったとしたら、そこに魅力を感じないのは当然と思われます。また彼女が「存在の類比」などカトリシズムの深淵に触れていないように見えるのは、プラトンやカントに依拠した美の感受について、数多くの描写からうかがえますし、J.マリタンへの批判も彼女が、二元論的構図で思索していたこと、その限界も同時に見えてきます。一方、イタリアでアシジの聖フランチェスコに跪き、十字架の聖ヨハネに感嘆し、ソレム修道院の体験の回想、ペラン神父との出会いなど、カトリック教会の扉がすぐ傍にあり、憧憬を抱きながらも、彼女の透徹した頭脳がそれを遮断してしまったことがうかがえます。戦争や恐慌の悲惨、飢餓で死んだ子供たちの報道に大粒の涙を流すヴェイユは、自ら犠牲を実践するように34歳で亡くなります。未受洗で亡くなった彼女の魂が、extra ecclesiam nulla salus に照らし、今どこをさ迷っているのか、非常に気がかりであります。♰

 

 

 



▲このページの先頭へ