個人的にちょうど『マリア:Je vous salue, Marie 』を見直していて、彼の生命やカトリシズムに対する独特の眼差しを確認していたところでした。『新ドイツ零年:Allemagne 90 neuf zéro 』など、セリフを殆ど暗記しているものが多くあります。
新作を楽しみに待つことのできる数少ない作家が、また一人去られました。
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2月にウクライナ侵略が始まった際、プーチン大統領の気が狂ったという「まさか」の論調が世界中を覆いました。主権侵害や仮にロシアが瞬時に制圧できたとしても、国としてのロシア・イメージ悪化は避けがたく、後々大きなダメージとなることから不合理な暴挙、冷静さを欠いた行動と受け取られたのも無理はありません。しかしキーウへの作戦がウクライナ側の予想外の抵抗により失敗したこと、そのことに全く怯まないところにどこか不気味なものを察知した人は多いはずです。あくまで攪乱情報発信源の代名詞のようなクレムリンの表向き態度であり、発信時の虚勢-演技が作用しているとしても、大統領は「ある確信」において侵攻を進めていたことは事実でしょう。日本の政治学系教授による論説で、今回のプーチンは「目が据わっている」という表現を耳にしましたが、これはプーチンが戦術や頭脳のレベルで言動していないことを上手く捉えた描写だと思います。つまりこの態度は、些末な利害や諜報の巧みさの話でなく、恣意的な歴史観から生じた「ロシアこそ善である」という、独りよがりな確信(盲信)が土台にあり、そこから生じて来た振る舞いです。この悲惨な一方的侵略を正確に見極めるには、衛星技術など現場の軍事情勢の分析よりも、プーチンの行動原理となっている理念の分析こそ重要な鍵となり、ロシア国民がその反キリスト的欺瞞に少しでも気付くよう促すことこそ、大統領退陣への追い込みと軍撤退の実現に繋げる上で重要となるはずです。しかし半年経過してしまった今となってはパスカルの「力なき正義は無力、正義なき力は暴力」のごとく、最終的に物理的な力に依らない限り、どうにもならない状況に陥っています。度々映し出されるカメラの前で十字をきるプーチンの姿を私たちはどう受け止めるべきなのか、彼の属する、あるいは近いとされる古儀式派の急進的側面、またプーチンの精神的支柱とされるイリインの哲学とはどういうものなのか、これら洞察抜きで政治-経済だけの視座でこの戦争を判断すると、単なる暴力としか写らず、起動因たる肝心なところを見落としてしまうように思われます。
<歴史と神話の混成物>
ティモシー・スナイダー 『自由なき世界』には、万全の準備をもってイリインの思想を復活させ、具現-実践するプーチンの姿が詳細に描かれています。ここに選民思想的な二元論「無垢のロシアvs堕落の西洋」という切り分けが頻出しますが、ロシアが一方的に持ち込むこの枠組みの根拠は何も示されていません。
ウクライナ併合を必然と見なす言説流布や物語による心理戦、情報空間を利用し一般人発信を装う多数者のポリフォニー作用とフィクションによる巻き込みと方向づけ、エゾテリックで恣意的解釈で歪められた聖書の断片、政治と神話の混成物が人為的に紡がれ、先の米大統領選でも渦巻いていたものに酷似したものを感じます。神秘主義を介在させた右派による終末論と不安の扇動は、目に見えないものへ向かうという点で世俗ニューエイジの流れとも親和性高く、ゲノン(René Guénon)に通じるS.バノンのような人物が、現実政治に関与している様はフェイクという次元ではなく、もはや現実世界それ自体がオカルト化してしまっているように思えてきます。
十数年前ソロヴィヨフ目当てに読んだ『ロシア革命と亡命思想家―1900-1946』にイリインの講演も収録されていたことを想い出し、今回読み直してみました。ヘーゲルやフィヒテなどドイツ観念論に影響を受けたイリインの哲学は、この講演録だけでは全貌が見えませんが、神学面での穴や飛躍と曲解、過ちは数多く見つけることができます。
現代人にとってロシアとヘーゲルの関係というと、真っ先に浮かぶのはフランスで活動したコジェーヴ(Alexandre Kojève)でしょう、彼を介したヘーゲル思想は、現代哲学の中に今も脈打っています。個人的にもヘーゲル「精神現象学」に夢中になっていた時期があり、プログラミングに馴染んでいた自分にとってヘーゲル「論理学」の奇妙さに首を傾げていたりもしていました。それでもベルリンに居た頃は強い親しみを感じていました。
ドイツということもありヘーゲル自身は信仰面でプロテスタントの立場で、若年期カトリックを強く攻撃していましたが、後に教会の礼拝に参加しなくなり、カトリック教会に何度か訪れ、心境が揺らいでいたという報告があります。EMジョーンズなど、現代のカトリック文芸家の幾人かが、ヘーゲル信奉者であることは興味深いことです。
<悪の非在と物理的強制>
時代は違えどロシアを追放されベルリンに居住したイリインの哲学はヘーゲル右派の側であり、日本で読まれているMシュテルナーなど左派とはまるで異なる宗教的かつ保守的な立場からのものです。
1931年の青年集会で行われ、後に雑誌掲載された『力による悪への抵抗に関して』を読むと、悪との闘争に剣のヒロイズムが必要であるといった驚くべき聖書解釈に出くわします。批判の主たる対象となっているのは、トルストイの無抵抗主義と彼の悪の扱いについてです。これ自体は的を得ている部分も含まれますが、公平に見て性急な極論が並んでおり、論理立てが乱暴で主観的に過ぎる部分が目立ちます。彼の思想の背後に漂っているのは正教というよりもプロテスタント急進派にみられる終末観であり、その純化傾向は、狂暴なものに結びつきグノーシス的二元論と同質な有害なもののように思われます。ファシズムに意義を認めるような右派読者にとって、イリイン哲学は賞賛に値する部分も含まれるかもしれませんが、キリスト教思想としては異端でしかなく、教理的にも論理破綻しています。核を保有する大国の大統領がこのような思想に心酔しているとすれば、暴力の正当化に用いられかねず、恐ろしいという他ありません。
<ナラティヴと巻き込み>
キリスト教世界は哲学や文学より遥かに重厚で領野-広大です。だからこそ危ないものも多数紛れ込んでいます。愛によらず「裁き」に徹する形式的かつ力にうったえる宗派を私たちは深く見極める時期にきているように思います。現代の教会においても左派の放縦さへの糾弾はされても、保守派へのそれは外観が正統に写るために真意が見えにくく錯覚しやすい。この荘厳な外面は装飾や演技によるものでなく、真の敬虔さなのかどうか、内面が白く塗られた墓なのかどうかは見極めが難しいところです。しかし残忍な描写の多い旧約聖書でさえ、執り成しの祈りに耳を傾ける、優しく赦す神の姿があり(Gen18:23-33)やはり判断は外面-形式よりも、愛と赦しの振る舞いからしか導出できないものでしょう。
またキリスト教から生じた実りの一つとしてシュライエルマッハ等の解釈学や、近年の物語神学があり、これらは文学的に接する限り、豊かさを含み持つものですが、今回のように国家権力が、恣意的な物語を神と結びつけ、暴力として作動させる事態に直面すると、やはり「解釈の自由」というものについて、何らかの制限の必要性を考えさせられます。コラージュなど20世紀前衛芸術に慣れ親しんだ世代からすると、精神が切り刻まれ、分散することの快楽のようなもに一定の意義があったものの、それらはゲームのように刹那的なものとして消え去るものなのかもしれません。ある貫かれたものや、永遠を欲するのが神との関係修復を望む人間の態度なのでしょうか。電子網の日常化で価値相対主義が私たちを浸食しきっていますが、フィクションから史実まで、全ての物語が等価なはずはなく、そこに真理というものを真剣に受け止める構えが要請され、死すべき存在である私たち皆に迫られているように感じます。
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ここ数ヶ月のウクライナ受難について言葉が見つからず、一刻も早く人々が平穏な日常を取り戻せるように祈ります。
ロシア現指導者の帝国主義的戦略の狡猾さに憤ると同時に、このことで長年培われてきたロシア文化に対する反感や偏見が固定されてしまうことを危惧しています。自分は十数年前、たまたまロシア語を学ぶ機会に恵まれ、トルストイを原文で読む取り組みなど数年間させていただきました。二十年程前から入れ込んでいた思想家フロレンスキイ(Флоре́нский )をより深く知りたいと考えたことが直接の学習動機でした。時間が経ち、残念ながら語彙も文法も今は殆ど忘れてしまっています。さらに昔の話ですが、80年代ニューウェーヴ世代として青春を過ごした者として、ロシア・アヴァンギャルド作家達の鋭利な思考や芸術を身近なものとして吸収し育ちました。その後もタルコフスキー映画にみる幻想、ゴーゴリのユーモア、プーシキンの調和と美、レールモントフ等の小説の魅力、バフチン、シクロフスキー、ロトマン、プロップ等の文学論-記号論、正教会の建築やイコン、ストラヴィンスキーの音楽、ソロヴィヨフの哲学、ヴィゴツキー心理学など領野横断的に偏ったロシア文化を多く吸収してきました。しかし愛着あるこれら文化が一国の統一的イメージとして束ね難いことに長年不可思議な想いを抱いてきました。そしてこの想いは後にロシア語を学ぶ機会を得ても、疑問が解けるどころかさらに深まることになりました。
大半の英米作家たちはいくら個性的であっても「既存の枠」にどうにか収まるのに比べ、ロシアの作家たちのエキセントリックさは形容し難く、類型的に括ることを拒むような唯一性をもち、ナショナリティーや民族性といった系統に繋ぐことさえ馴染みにくい(実際、亡命者も多い)、止む無く便宜的に「ロシアの〜」と属格表現することくらいしかできません。このことは法則性や形式に還元できない個こそ真の作家性の核となるものであり、ジャンルや類型はエピゴーネンを延命させる装置として作動し、量産体制や産業と親和性があるものの、長い眼でみれば文化の衰弱-消費へ繋がるものでしょう。M.クンデラが繰り返し批判する社会主義リアリズムが、その成果というよりも、創作における作家の精神を抑圧すること、つまり特定の政治体制とボトムアップな自由の余地無き場における文化の不毛について述べられていることとして理解できます。このことは国家体制と技術の関係(一時は米国を凌駕した露の宇宙開発)、文化というものが精神を耕す営みとするならば、今現在その自生の動きを妨げるように委縮させ、散らしているのは特定の国家というよりも、フラットなデジタル・グリッドというところでしょうか....。話を露の文化に戻します。
現在その国で話される言語を学ぶと、文化圏の古層、語彙を辿って歴史の深部へ経路が開かれているかというと、ソビエト連邦という特異な時期を経たロシアに限ってそうでは無く、設計されたシステム以前が不可視の状態に長期置かれていたようです。つまり本項で言わんとすることは芸術をはじめ「文化の源流」としての宗教の存在、欧州はもちろんのことロシアという大国も、キリスト教なしにその精神構造は理解し得ず、後付けされた「想像の共同体」や政治システム等では決して説明しえないということです。
9世紀の古代教会スラヴ語、メトディオス、キュリロスの二名のギリシア人によるグラゴル文字、キリル文字の開発経緯を洞察せず、ロシアやスラヴの民俗意識が自明のものとして単独にあったかのような言説が日本で巻き散らかされるのは「鰯の頭を拝む」レベルで信仰を安易な人為的-支配法と誤用してきた日本固有の宗教への先入観からくるものでしょう。あるいは出遅れて近代化を急ぎ、文明開化期に和魂洋才といいつつ西洋文明を道具として取り込み、得るものを獲得した後、自分自身は変わるつもり無しと言う様な防衛本能というか、むしの良い構え(カール・レーヴィットによる日本人の文化観への皮肉)良い所取りしようとする、その日本人の本源に一体何が在るのか、茶道や「わびさび」までキリスト教で説明できるという論説に出会うと、実際のところ日本の固有性というものは「日本語」以外に何が残るのか、西洋哲学の規定的篩では掴みようが無いものでしょうが知りたいところです。また左派の人々が宗教を無意識に排除してしまう原因は積極的無神論、人間中心設計主義に立つ場合もありますが、主として教育機関の態度、戦後の反省意識の過剰から醸成されて来たもの、欧州では啓蒙期の理神論が起因しており、一定程度理解はできます。しかしこのような還元主義的科学観による神理解とキリスト教<誤読>がいかに愚かであるか、テリー・イーグルトンのようなマルクス主義者でさえそのことを強く主張しています。一方、保守系とされる人々が地球化vs国家という単純化した対立図式と経済原理だけで世界情勢を説明しようとし、陳腐な陰謀説に喰いつきプーチン大統領をソルジェニーツィンと絡めて擁護する方が居られますが、今回の軍事侵略をそれら素材からどう正当化し、地方自治重視の理念や信仰に根差した文学とどのように整合性が取れるのか、論理的筋立てを聞いてみたいものです。多くの命が日々奪われている中で、なぜこのような論証抜きの邪推を公言することができるのか..。いつの時代も政治に謀略は付きもので、特定の人種が世界中の革命に関与してきたことは一定の事実を含むものでしょうが、実証性を欠く言説をまき散らすことは価値相対主義をさらに強化させるだけで有害にしか思えません。全てを権力問題、友敵-政治枠だけで社会を裁断する人々は、文化や芸術を真に味わうことができるのか、自称保守の論客が肥大した猜疑心、道具的理性しか持たないGKチェスタートンの言う狂人のような振る舞いに陥っているという自覚がないようです。詩や文学は信仰という土台抜きで営まれ、創作は単なる気分や関心の連結と技巧による「自己表現」に過ぎない、とでも言わんばかりの態度です。デジタル大衆時代、選挙が近付いてくると、益々単純化された政局絡みの飛ばし記事やアジビラのような言説が散らかり、それら混乱を振り分け濾過する為にまた新たなカテゴリーが設けられ細分化と分断進行は留まるところを知りません。
当然のことですが、人為的な慣習や文化をいくら組み合わせたところで魂のレベル、存在の根底に礎を築くことはできません。経済的充足や気晴らし娯楽によって、日常そのような真剣な問いが生じないよう巧妙に塞がれていますが、今ウクライナで起きていることは命にかかわる「存在の問題」です。あれもこれもという八百万の神々はポストモダンの世と親和性高く、相対主義の網目の中で見たいものだけ見、不快な物は遮断できますが、存在忘却の中に居る人ほど遅かれ早かれ、いずれ虚無に足を掬われます。命の問題について無責任な言説が広がることへの対策、情報検閲などではないやり方、教育レベルでの根本的で真剣な対処が必要ではないでしょうか。つい余計なことを書いてしまいましたがロシアの話に戻します。
ロシアという特異な国の在り方、非連続な歴史を持ち、アリストテレスの提唱する中庸とは程遠い、井筒俊彦も書いていた「両極端に振幅し突き進む」稀有な特性は、それでもやはり集団を束ね、柱と成るものがそこにあったはずであり、永続的にその核たるものを担えるのは心内基盤としての信仰であり、雑多な文化や昔話を寄せ集め、儀礼の反復による絆形成だけでは、心奥に届く統治機構へと育ちえません。人々の精神を統一的に建て上げ、世界に存在を示しえたのはキリスト教、正教の存在であったのでしょう。国家や民族のアイデンティティーは政治意図からしばしば後付け神話として構築されるものですが、『過ぎし年月の物語』の旧約聖書にもある大洪水の人類の祖先セム、ハム、ヤフェトからスロヴェネ族、後のスラヴ民族が導かれたとされる説を、そのまま受け取るのが民族共通理解なのでしょうか。これらが創作神話であったとしても、検証不能である意味仕方がないと思います。しかし彼らにとって新約聖書の史的イエスまでも歪曲されてしまわないか、盛んであった聖者伝文学や外典重視の伝統を見る限り曖昧な部分がかなり含まれたまま伝承が行われてきているように推察できます。
また古代教父、証聖者マクシモスやニュッサのグレゴリウス等の「神の名」の動的な存在論、イマゴデイからテオーシスに導く思考は今も色褪せず、東方の精密な哲学と霊性を伝えていますが、こと史実の伝承と検証となると別の作業で、アナロジー思考の習慣がここにも及んでいるとするならば歴史記述を歪める作用として働きうるものでしょう。一般的な世界史として、北欧ヴァイキングによる東ローマ、コンスタンティノーブルへの交易、リューリク朝とノブゴロド公国、9世紀キエフ大公国、ウラジミール公洗礼をもって公的なキリスト教の地位を獲得、ビザンツ帝国滅亡後にモスクワが「第三のローマ」というメシア的な色彩を帯びてゆきますが、これらはあくまで支配層の公式な権威表明であり、民衆の間では別の流れがずっと以前から並行してあり、ミラの聖ニコラウスの民間信仰が4世紀から農民層の間で続き、異教との混淆もごく最近まで長く継続し、特異な死生観と苦境を耐え抜く精神力として保持されてきたと考えられます。こういう民衆の心性から現在、ロシア国内が情報統制下に置かれている以上、政権を粘り強く支える厄介な結束力と成っているように思えます。民話や異教との混成から聖書理解が汚され、曲解を促しているとすれば絶望的ですが、それでも真摯な祈りを知っているはずのロシアの民衆が現在の武力侵攻と福音書に描かれる真理が折り合うことなどないことに気付く日がきっと来るはずです。
スラヴ民族がキリスト教との出会い、聖書伝達という契機まで文字を持たなかったことは民衆の後進性と見る向きもあるでしょうが、言葉の持つ音声面の豊かさ、意味の規定性よりも、遊動性を保持してきたとも取れ、独特のフォークロアの醸成とその豊かさにも結びついているのでしょう。ただ事実の記録伝達という面は不安定で変容してしまう可能性を含み持ちます。文字は霊を殺し、声は霊を生かすものでもあります。記述よりも口承文化の慣習や伝統はR.ヤコブソン等、東欧を含む言語学で音韻論と詩学の結合が試みられ発達したことと関係があるのでしょうか。
東方正教会は東ローマ帝国の「皇帝専制支配」の影響下にあり、西ローマのような教皇-皇帝の緊張がない分、安定体制を維持しやすく、カトリックの空間制約無き世界の普遍教会というより、領土-土地ベースの統治体制を取っています。現在のロシアは世俗国家で表向き国教はありませんが、ソ連期に破壊され僅かに生き延びた教会は政治権力の下位に在り、その関係は今も大差なく、むしろ国家や政治家の権威付けのため、民衆の信仰心を利用するためにキリスト教を用いるという構図は、かつての王権神授のような霊力の後ろ盾という狡猾な「神の利用」と道具化を実践しているように見えます。プーチン大統領が自分をピョートル大帝に準え権威付けを計っているという最近のニュースは、ペテルブルグという出身地や力への執着姿勢として共通項はあるかもしれませんが、文化面-信仰面からすると全くの矛盾でしょう。西洋使節団を送るような啓蒙君主達、ロマノフ朝の文化観は遅れて近代化を急いだ後進国的な態度、明治期の日本と重なるような在り方で、宗教性や土着性をそぎ落とし表面だけ取り繕った宮廷文化、真のロシア・アイデンティをそこに置くことは民衆への裏切りのように感じます。敗戦後の日本の精神的空洞は多くの新興宗教を産み出しましたが、これはどこかソ連崩壊時の心の真空状態とも似ており、18年残酷にも死刑執行でけりをつけられた教団はどういうわけかロシアに進出し大きな勢力を保持していたことを思い出します。二千年の歴史を持つ一神教と急拵えの新興宗教を同列で語ることに強い嫌悪を覚えますが、日本の宗教理解は残念ながら「区分けが同じなら、個々の質は問わない」という浅い認識で、それにより魂を救うという存在の問題-観点は無く、目先の「ご利益」しか見えていないのでしょうか。
ロシアの存在を総体的に捉える好材料としてソクーロフ監督の「エルミタージュ幻想Русский ковчег 」があります。これはペテルブルクのネヴァ河畔にある国立エルミタージュ美術館内をワンカットで撮影した実験的映画です。直接扱うのは華やかなエカチェリーナ2世等のロマノフ王朝の歴史と宮廷文化ですが、史劇と対比して映し出される所蔵品に描かれた古代の聖書のモチーフが交差し、ナレーションが時空を歪め、全体を一つに束ね響かせることに成功しています。
貴族権力の富の象徴としての美術館(仏革命のギロチンと犠牲)と、館に配置される清貧で謙遜な愛の物語の矛盾、正教圏にあって、ドイツ傾向の強い皇帝の装飾と屋敷、遅れてきたロシアが抱く西洋への憧れと世俗への警戒、聖性への追求態度、キュスティーヌ侯爵 (Marquis de Custine)の吐くカトリック!という発話.....。資産価値としての美術品収集と真の美に対する感性がスレ違うこと、ゼーデルマイヤ(Hans Sedlmayr)の視座に近い芸術における神の不在を思わせるカット、学べない館長のシーンや「権力は無知で文化の樹を育てられない」という絶妙な台詞の数々で構成されています。
今回ウクライナ正教会の在り方とユニエイトの問題、ニーコンの典礼改革と伝統や本質の解釈をめぐる抗争、
不吉な年号1666年に発生した古儀式派のことに触れられませんでしたが、典礼をめぐる内部対立はカトリックも抱えているものなので、改めて書くつもりでいます。
浦上と受難
歴史把握はその時代ごとの政治情勢、様々な資料や解釈などが入り交ざり困難が伴いますが、ある研究者によれば、長崎の原爆投下は、浦上教会を標的に落とされたと推察されています。表向き天候理由での標的変更ということが実際の記録、史実と異なることの指摘、当時アジア有数の祈りの場であった長崎の浦上がなぜ選ばれたのか、また約5Km先の造船工場や軍用施設が無傷であったことなど、多くの点で不可解だと述べられています。自分は原資料を精査する能力を持ちませんが、偏った推論に陥らないよう慎重であろうとしつつも祈る人々、赦しの秘跡の最中に、このような惨事に見舞われたことを、時間においても空間においても単なる偶然と考えることが困難であり、戦時下であっても非戦闘員、祈っている人々に向けられたこれほど残忍な蛮行を、どのような意図が伴えば人間は実行できるようになるのか...。
数年前自分が、平和公園を訪れた際、世界から贈られた立派な反戦のモニュメントが多数並んでいました。しかしそこにある国名はソビエトや東ドイツ、チェコスロバキアなど、冷戦時を想わせる今は無き旧共産圏からのものばかりであり、西側諸国のものが全く見当たらないこと、どれも平和をうたいながらイデオロギー色濃厚な政治性から届けられたと思しき記念碑ばかりで、非常に残念に感じました。また報道写真や実況中継でいつも中心に据えられる慰霊の白い男性の巨大像/平和祈念像が、不気味であることをその場で強く直観しました。後でその彫刻の画像を観察してみると、ヒンズー教の像のように額にティラカ/ビンディーらしきものを付けていることがわかり、作家さんの個人的趣味なのか、政治的意向で指示があったのかどうかわかりませんが、非常に不可解に思いました。慰霊や鎮魂という儀式やそれに伴う空間の構成は、現実的には現世を生きる人々への教育や政治的な拘束-行事として執り行われます。しかしそれでも死が終点で生の消滅、ゼロではなく、その先に魂の何がしかの在り方を見立て、それを前提として執り行われるわけであり、ただの儀礼であったとしても、そこに特定の色彩を帯びた造形物が中心に置かれている場合、どういう意図であるかの説明責任、また詳細な学術検証がなされるべきではないかと感じます。公空間におけるモニュメント設置やシンボル提示は、政教分離の原則から中立であるべきです。しかし「宗教隠し」を徹底しつつ公共性を維持しようとする際、死者を扱う場面で様々な困難が生じます。(死体や遺骨はただの物質とは見做されません。)抽象化されたものや無味乾燥な彫刻であれば空間並置はあり得たとしても、潜伏キリシタンからの歴史が続く場所で起きた惨事、その鎮魂の場でシヴァのように見える像が中心を占拠している光景は異様そのものであり、露骨なアンチ・キリストの表象のように見えてきてしまいます。権威により先に置かれたものを疑わず、純朴に受け入れ順応してしまう日本人のメンタリティに共感しつつも、それらが民族性へ繋がれて誇張され、本島等市長の言論を力で封じるような力を肯定させ、今も温存させているとすれば怖ろしいことです。
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?.模範なき徳育
?.マニエリズムと引き攣り
書きかけたものを長く放置し、時間が空いてしまいましたが、前項の続きです。
?.心を散らすもの
全集から引用します。「「イラスト入り新聞」は物事をバラバラに散らし、また分解し、本質的なものと非本質的なものとを等しい一様な平面の上に打ち付けます。その平面は、浅薄なもの、その場限りの怪しげなもの。及び既に過ぎ去ったものから成っています。」へーベル-家の友 全集13巻(創文社)
多数の翻訳と本国ドイツを凌ぐ夥しい研究書が出版されているにもかかわらず、日本ではハイデガーが元々カトリック神学を志した人物であり、思索においてもキリスト教的価値観を強く保持しながら独自造語を投入し置換しながら思索したであろうことがあまり語られません。ルネ・ジラールは、ハイデガーがキリスト教由来の洞察を巧みに隠そうとしていたと度々指摘していました。実際「存在」を欧州の「神」と紐付け読み替えていくと、被投と被造の対応など解読が容易になります。(一神教に疎い日本人が最も理解し難い創造者の前提、トマスにより定式化され、ジルソン(É.Gilson)に再強調されたEx 3:14のテトラグラマトン/文法的に不可でありつつも神学的に肯定されてきた)また 昨年亡くなったスタイナー(George Steiner)はハイデガー本人は、積極的にキリスト教神学の超克を目論見ながら、異教や文芸に範を求めるようとするも、それに失敗しているとも述べられており、当人はそのことを悟られぬ様、予防線を張るような言説も散見されます。悲惨な戦争を経験した世代にとって、政治と宗教で外堀を固められた大学のなかで、個としての立場表明はセンシティヴな問題を孕み、字義通り受け取れない面も多々あったであろうことはガダマ―による報告にもみられます。また処世術にみる狡猾さは、木田元に指摘されてきた通りです。ハイデガーの日本受容は訳者辻村公一をはじめ、西谷啓治など、日本風土に引き寄せ仏教と関連させて読まれ論じられがちですが、禅仏教から法学、哲学を経てカトリック修道士へ至った奥村一郎(カルメル会)が何度も指摘していた日本における「宗教隠し」の風潮が、哲学とキリスト教の分離を促進させた面も考えられるでしょう。
?.模範なき徳育
それらは世俗に蔓延し現在に継がれていますが、自生的な文化や慣習というより、かつての学制「修身」や勅語など徳育に対する憎悪に似た感情、政治規定に起因するものが大きいように感じます。戦前の日本の軍国主義、人為的-神概念の政治利用の反省からか戦後社会、とりわけ教育は全ての権威を相対化し、経済成長に与する人材増産所のごとく学校が機能し、計測-数値化可能なものを軸に据えて子ども達を篩にかけ、そこで生じる歪みは日本独特の慣習―本音/建前の使い分けと、表面的ヒューマニズムによりオブラートに包むことで隠蔽されてきました。これは存在への深い問い、真理への道を外面的態度でやり過ごそうとする厄介なものです。理屈はわからずとも、思春期の鋭い青年は大人の偽善を敏感に嗅ぎ取ります。自分は知らない時代ですが、校内暴力や非行、心の空洞を埋める娯楽や文化、その究極的捌け口として昭和期は多くの新興宗教が犇めき合い、果てはカルトまで準備してしまったこと、90年代に頻発した予期せぬ類の少年犯罪、人間が壊れてゆく様子を目の当たりにし、止むなく始まったかのようにみえる公教育の「道徳-特別の教科」後付け的設置について、宗教(道徳を内包する)隠しの弊害による対症療法でしかなく、気休めにはなっても、他者の痛みを共苦できる宗教的情操や生命に対する畏怖の念は、超越的領野に踏み込まない限り接することはできないはずです。また専門領野として強引な数値化やDSMなどの類型を前提とした精神医学、一部文学の変奏として受容可能な精神分析でさえ、人間の心や有ることの謎、存在そのものが解明できるはずもない。前世紀は阿部謹也同様に海外居住経験から日本の風習や心情を分析し、「前-言語的」な洞察、甘えの様態に取り組んだ土居健郎のような稀有な人物も居ましたが、精神医学の限界線を見極めたのかどうか、文学や芸術に造詣の深い中井久夫氏のような優れた学者が近年カトリック受洗したというニュースに驚きと同時に喜びを感じます。(氏が助言関与された受験戦争期の金属バット事件の分析、家族不和における浪人生の役割を「伝声管」に譬え論説されたことに感銘を受けました。)
医療や栄養面の改善に伴う長寿命化と同時に、青少年の発達-成熟化もかつてに比べ、善い意味で大幅に低速化しているように写る現代、若者は急き立てられない緩さの中にあり、精神的脆さを持ちながらも「優しさ」を備えたその姿は、他人を押し退けて貪欲に力を求めていた昭和世代に比べ好意的に感じられる面が多々あります。一方で気晴らしと耽溺できる逃避先が無数に手許にある現代は、視界から死が遠ざけられ、隠されることによる存在忘却の側面は深刻化してもいます。
数世紀前にへーベルが嘆いた情報の混在、現代のように「聖-俗」の境界が撤廃され、人間中心主義に成り果てた世界は、無秩序からくる混沌を防ぐために法整備など管理システムを増強させていくことが必須となります。あらゆる事物をどこまでも算段し尽くそうとする中で構築される監視機構は、人を個体主義的に自存させようと報酬による条件付けで飼い慣らし、そこに伴う情感といえば渇きを埋めるべく利己性を保持したままの対-外関係性への欲動と探索であり、表向き協調を装いながら生じてくる差異化意識は多くの欺瞞を内に宿し抱え込むことになります。この相互監視機構から生じる果実は刹那的で圧倒的量の篩が支配する模倣と比較から導出された卑俗なものに陥ってしまうのは必然でしょう。文化も芸術も漏れなく俗世的享楽の地平に引き摺られ適応を迫られます。
死の問題、それを見つめる態度は、医療や生物学、儀礼の問題というより本来「生」の中心議題であり、同時にそれは誕生や性の問題と切り離すことができません。青少年を導く教育の現場、世俗の価値観に染まり宗教隠しを徹底した学校現場において、「なぜ」生きるか、「何のために」生きるか、という問いは巧妙に避けられ、既定-職種の進路選択へと平然とすり替えられてしまいます。そこでは量や序列以外、どのような価値が求められるのか。成果主義は目的と手段が容易に倒錯してしまう枠組みであり、その中ではどのような人間が「お手本」とされ得るのでしょうか。
教育の側面から「メノン」、あるいは聖書の<律法-福音>を対比してみる時、可視化された社会において道徳的に立派と賞賛される人間は、実際は大きなものが欠如している可能性が極めて高いことに気付かされます。欺きが蔓延し、量や比較しか価値指標の無い世界において、報酬抜きに真に利他的であることは不可能となります。垂直の声「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない」(J 15:13)という聖句に対して、現代人はこれをどう読むでしょうか。かつての幼児教育や絵本、児童文学に確固としてあった自己犠牲の精神や物語が戦後批判され、閉め出された末、この愛に響かず、揺さぶられない、あるいは困惑する人々......世俗文化や教育により内面を書き換えられた大人が今日多数派を占めるように思われます。しかし人工的玩具により囲いこまれ、染め上げられる前の無垢な子ども達は「本源的な何か」を受け取る力を有しています。現代社会は、ただ人間を賛美し、生きること自体が目的化され、ただ「生き延びること」が平然と推奨されるなか、病や死を暗黙のうちに悪のごとく斥け、除去しようとしています。果たしてその先に人間は存在するのでしょうか.....。
?.マニエリズムと引き攣り
荒廃する電子空間に、必然的に蔓延る検閲と言葉狩りも、表面性と心内の二層化を推進する役目を担っています。懲罰で追立て、協調を強いることで生じる属性で繋がれた各集団、所属や党派的色彩を帯びた外面性と心内の闇、どれほど器用な人間であれば面従腹背を継続させ、気晴らしに逃げることで欺瞞を演じ屈折することなく精神衛生を保持できるでしょうか。
美術史家ヴァールブルク(Aby Warburg)の主治医でもあったビンスワンガー(Ludwig Binswanger)による著書「思い上がり・ひねくれ・わざとらしさ」(ハイデガーに捧げられた)は、ピンダ-(W.Pinder)のバロックの膨張性とマニエリズムの形式に拘束された人為的な形式や呪縛的ともいえる模倣態度を手掛かりに、ゴンゴラ(Góngora)等の芸術への考察が展開されています。これらは精神病理と形式を洞察する上で現代的な模倣-反復文化と重ね合わせて読むことができます。マニエリズムは俗にマンネリ語源としてジャンル区分や形式のみが語られがちですが、精神面において内的亀裂の顕れ、伝統らしき外皮を被った、実は「反古典」であるという見解は、自己喪失したもの、根の無い者ほど、形式的な伝統や民族主義に傾いてしまう現代の在り方の予言のようにも読めてきます。内的矛盾に直接起因するものは、神や宗教性の異様な顕れとしての現世-的、官能性に結びついたものと論ずるアーノルド・ハウザーの考察も想起されます。
人は垂直への洞察抜きに、水平のみ、横の関係-調整として構成された道徳などでは決して救われず、かえって自己欺瞞、二重化する心内の動きに自ら苦しむことになるのではないでしょうか。
昨今のポスト・トゥルースな情報網に包まれる現代人にとって、マクルーハンの先見性と楽観的態度は一つの希望として受け止めることができます。
しかし生活の細部、また身体内部にまで侵入する技術に対して、それらが価値-中立的道具と見做せるものか、技術の側が私たちを方向付けし、眺望機構によって統制し規定しつつあるのではないかという疑念がどうしても残ります。メディアに身を委ね、マッサージされるがままに自己変容してしまって良いものであろうか、このマッサージの振動は表面的に皮膚にとどまらず、より深部-内蔵にまで達するもののように思えます。
<空間に存在しない故郷と時間>
哲学者ハイデガーは、故郷喪失という文脈の中で、地域性に根ざしながら普遍的な力で創作するへーベル(J.Peter Hebel:1760-1826 )の詩を賞賛しつつ、現代社会において、あえて都市から離れ、長閑な田舎に住む人々を、空間的にその場に居ながら、意識は中央-首都のラジオ放送に向かい、実際は精神を吸上げられている様子に、二重の故郷喪失という論じ方をしていました。
へーベルは方言の響きを大切にし創作したこと、また地元の新聞の記事の配置について、大切な話と好奇心にうったえる俗的な話、また広告のような類が一緒くたに混在するレイアウトに酷く嘆いていたことは、現代の情報社会の混沌により人々の精神を蝕む様を予見していたかのようです。へーベルの『ドイツ炉辺ばなし集』はカレンダーに挿入される短編集ですが、人々を束ねる暦、カレンダーの指示する「共通の時間」は民俗的にも宗教的にも、個の存在を考察する上で含蓄あるものです。 つづく
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「都市は観光客向きの文化幽霊としてならともかく、もう実在しない。」M.マクルーハン
グーテンベルグの銀河系、機械の花嫁、地球村等のキーワードで知られ、インターネット時代の預言者であった中世文法史家のマクルーハンは、その独創的アイデアによって生前からウォーホール等の20世紀アーティスト達、とりわけケージやパイクといったフルクサス関係者等にとってヒーロー的存在でした。現実世界が断片化する現代において、今さらメディア論など食傷気味で、手遅れ感がありますが、文化が表面的になり生活圏が見物対象化される中、また端末を介して個人の言動データが収集されデジタル全体主義の様相を呈する世の中で、マクルーハンの再解読は有意義だと思われます。それは彼の考察が技術論というよりも文字や修辞を手掛かりとする入出力過程と統覚を人間拡張という、順応や学習へ繋げるコンセプトに特徴的であり、そこで前提とされている人間観、近現代において人間中心主義が過度に進み、存在の本質についての洞察が欠落しているからこそ、彼の文化観と人間ヴィジョンが重要であると思われるのです。
マクルーハンの態度はヴィ-コ(Giambattista Vico)やジョイス(JamesJoyce )、ハヴロック(EricHavelock)、I.A.リチャーズ 等の影響こそあれ、古典研究、識字能力が人間の精神を象る側面に注目しながらも、弁証法や異教混交という手法にみるメディアアートの祖というより、その姿勢において感性的総合を試みるカトリシズムの実践者そのものであったといえます。
世界人口の三分の一が属するとされるキリスト教でも、夥しい派を持つプロテスタント(新教)に比べ、カトリック(旧教)といえば単一ドグマと古風なイメージを抱きがちですが、それは外面的な一般論に過ぎません。実際は修道院や教会の営みに息付く霊性は、欧州において長期の間、文化の範型かつ豊かな泉として機能し、後の西欧芸術の土台を準備し育てたこと、現在私たちが親しんでいる西洋音楽など芸術の根は、世俗からというより教会という総体、広くとらえれば「神との関係」の中で育成され、構築されてきたものです。そのことが古代文芸復興と宗教改革の近世を機に価値相対化され、神が背景へ後退する中で次第に変質して行きました。世界の中心が人間へと移行する中、とりわけこの二百数十年余り、政治的流れで霊性というものがことごとく掻き消され、忘却されてきました。
<宗教(心の形)の顕れとしての文化>
近代以降の新教-旧教の差異について、この場で何度か指摘しました。類型化して語る作業はあまり望ましくありませんが、両宗派の文化的顕れを大雑把に現代のアパレル産業に譬えるなら、簡素で合理的「機能性」を追及したスポーツウェアがアングロサクソン系、独・米などの新教圏の在り方、装飾や個の唯一性の追及を繰り成す個人名を冠したブランド類がラテン系、仏・伊など概ね旧教圏に対応していることが確認できると思います。同様に両派の文化観-人間観がかなり異なることも、ヨーロッパ居住や旅行経験のある方なら欧州内の両圏の街並みに見る明確な違い、建造物をはじめ衣食住の様式を通じて、その根本基軸が異なることを推察できるはずです。これら人種や民俗性、文化観は地域の気候や風土に影響されるものの、当人の自覚の有無に関わらず、幼児教育に組み入れられた宗教(キリスト教)が影響を及ぼし、近年ライシテが徹底される国であっても、古い家系ほど家庭の躾において引き継がれ慣習を通して子ども達の心の中心軸として刻印され保持されてきたと考えることができます。ここで誤解してはならないのは、新・旧両派の違いは決して優劣のそれではなく、色合いと趣き、価値観の差として捉えられるべきものです。
また経済機構として、新教の理念と資本主義の間に強い親和性が見られることは文化史学、経済史家に繰り返し指摘されてきました。物事の「効率」追求や厳密な純化「弁別」傾向は新教徒の一貫した特徴であり、他方旧教は善く言えばおおらかで、異物を排斥するよりも、自らの内部へ取り込み、「包摂」していく傾向があります。よって経済や市場競争では新教が一貫して優位にあり、緩やかで融通の効く旧教側は出遅れ、しばしば内部に腐敗要因を抱えてしまう傾向を持っています。同時に、厳格な裁断で保たれる新教の強い規範意識は、形成される法秩序の合理性徹底により強固かつ安定的ですが、逸脱時に生じる「制裁への怖れ」が人々の振る舞いの外面性/演技性を促し、心-身二元論的な様態を招きやすいこと、そして潔癖傾向であるが故に偶発時に暴力に繋りやすい側面も持っています。
あくまで信念体系/宗教の顕れとしての文化であって、本来的にその逆はあり得ません。しかし世俗化、大衆化と個体主義が際限なく進行する昨今はそれが倒錯しつつあります。心の形が自ずと外型と成り文化を育むとするならば、現在の「外面のみ」の形骸、文化幽霊に陥りつつある観光都市、古都で生じている生活圏の見世物化は、核たる理念や宗教とは無縁の次元から生じてきていることがわかります。
マクルーハンはテクノロジーや来たるべき情報世界を詳細に分析し、それらが齎す影響を預言していながらも、当の本人はその可能性についてユーモラスな賞賛と共に警告めいた言説を両義的に記し、あくまで価値中立的態度に留まっていました。また時折顔を覗かせるカトリック信徒としての心情として、技術による眺望-管理体制を歓迎しているわけではないこと、それらを乗り越える人間の胆力への信頼と随所に見られるユーモアの中に未来への希望が窺えます。つまり情報技術が人々を覆う世界への全肯定ではなく、副作用も鑑みた上で、それでもある種のカトリック的な楽観的かつ寛容な人間像がそこにあり、そのことこそが彼の思想にしなやかさを与え、独自の世界像を提供するに至ったのでしょう。
メディア論の文脈で語られる多くの思想家、W.ベンヤミンやN.ルーマン等とマクルーハンの根本的違いは人間理解の様態にあり、またより後代の情報技術学者達によって専門性が追及され、精緻化や進展があったように見えて、かえって細部の些末なものに囚われ、人間洞察における深部を丸ごと取り逃しているように感じるのです。
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自分は少年期から90年代頃まで、具体的にはブラウン管仕様のマイコンからシンセサイザーまで、テクノロジー/技術全般に肯定的な人間でした。しかし指数関数的にコンピュータの大容量化と高速化、小型軽量およびネットワーク完備、低価格化が実現されることで、情報がユーザーの身体に纏わりつく様態に至るにつれて態度を改め、距離を置き、警戒するようになりました。神経系統と繋がれ擬人化していくテクノロジーに、かつて抱いていた未来への希望や夢などもはや無く、無際限に人体内に介入してくる先端技術に野蛮さしか感じません。
方向喪失、無極の現代世界において、何も信じることができず、ニュースの真偽も疑い出すと病んでいく一方で、近い考えの仲間を募り徒党を組んで判断の責任を分散し安心するか、気晴らしの娯楽へ逃げるか、情報洪水の中で正気を保つのはそう簡単ではありません。物心ついた時点で電子網に包まれた環境が初期値としてあるデジタル・ネイティヴの若い人達は、こういう老婆心を疎ましく感じるかもしれませんが、享楽時代の文化に順応、同化することで喪失するものは確実にあるように思います。次々に視界に入る際限ない誘惑に引き摺られている様は、自由な接触の様でいて、実際は自由を奪われた囚われの中にいる状態です。
また「新しいものへの期待」がまだ存在した時代が、遥か遠い昔のように感ずる昨今、文化が反復のみで均質化して久しく、時間だけが容赦なく過ぎ去るこの虚しさをやり過ごす方策が見当たらないこと、無理に仕事を詰め込んで忙しく仕向けることで、専心状態を確保することくらいしか、虚無から逃れる方法はないのかもしれません。
このような中で、衣食住といった「必要の外」にある場、心を預けうる憩いの空間というものがかつてありました。しかしそれらも観光資源として見物対象化し汲み尽くされることで、霊性の宿りうる寺社や自然が残忍な視線地獄に晒されている状況を、二十年近く前から憂いていました。この認識は既に一般把握されつつあり、隠されたものに美徳を感ずる人が少しでも増えることを期待します。宗教施設でもキリスト教の教会は、その性質からして市場や商業化の網からは免れていますが、政治画策の動きは、心の拠り所となる宗教を狙い撃ちしてくる側面があります。米国大統領選挙のクリスチャンをめぐる集票の動きは非常に醜いものが多々あったようです。歴史に登場する由緒ある大聖堂が数多くある欧州の教会は人々の信仰が薄れ形骸化する傾向にあるのに比べ、建国からまだ年月の短い米国における教会は活気に満ち、生きた場であること、この実情から政治勧誘の手が多方面から伸びないはずがありません。
日本の場合は、その特異な宗教観からして、1%に満たないキリスト教徒の数や社会問題化した新興団体への偏見が根深く浸透しており、残念ながら西欧と違って視界に入らぬ隅の方へ追いやられてしまっています。自分は幼少期より教会のステンドグラスや建築、音楽など、人々の献身的な内面の在り様とその美しさに長く親近感を持ち続けてきました。しかしそれは祈りから派生した果実に、外から触れるという距離感と態度に留まっており、より深部へと関心が向かったのは、熱心に読んでいた哲学書(古代〜近代)の延長として、ここ数十年の現代哲学の在り方に深く失望したことにあります。加えて「子どもの霊性」への関心からモンテッソーリ(Maria Montessori)等の幼児教育の源流にカトリックが在ること、またボルツァーノ(Bernard Bolzano)やカントール(Georg Cantor)等の数学の中に神学を発見するようになったためです。 つづく
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https://www.berliner-zeitung.de/kultur-vergnuegen/modell-berlin-ein-brunnen-der-inspiration-li.94028
]]>自分の原点、長年「子ども」にこだわり続けてきた源泉がここにあることを再認し、至福の時を噛みしめることができました。
「小さきもの」、「弱きもの」を慈しむ感性、いかなる信仰や思想を持っていようとも、単なる情緒に収まらないこの「原-宗教感情」のようなものは、人間を根底から揺さぶる力があるように思います。
]]>(サーバー管理不備で過去記事が消えてしまいましたが....。)
この十数年来、何処にいてもインターネット利用は「Eメール使用のみ」を基調に、最小限に留め過ごしてきました。
電子空間で何かを知ろうとすると、天気予報や時刻表確認ですら、次々に割り込んでくる広告などの雑多情報に眩暈がするのです。この情報暴力はその時のみに限らず、暫くの間残存し精神を蝕んでいく実感があります。神経質過ぎると思われるかもしれません。また多くのものが自動化傾向にある中、選別パーソナライズすればいいと考えるかもしれませんが、その方策が鼬競なのは自明であり、個人化-安楽環境の構築は利用側の利己性を際限なく増長させていくものです。遠隔操作など時短環境は表向きの利便性が歓迎される一方、それらを利用する人間の内面を変容させ、時に荒廃させてしまうのではないでしょうか。
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